室生寺その4(宇陀市)
今回の旅もいよいよ終盤へと差し掛かった。室生寺の最後は奥の院を訪ねることであった。室生寺の奥の院は五重塔よりさらに奥へ入ったところにある。しかし、そこに至る過程は見上げたとたんに嫌になるような長い長い急な石段が待っていた。
ひいひい言う妻を横に、これを一歩一歩慎重に踏みしめながら上がっていった。
弘仁・貞観文化の建築を見たい、母の思い出の事跡を訪ねたい、という思い以外に私が室生寺に行きたいと思っていたのには、契沖けいちゅうそして折口信夫の跡を訪ねたいと思ったからである。
契沖は江戸時代中期の真言宗の僧である。釈契沖とも言う。摂津国川辺郡尼崎*1の生まれで、俗姓は下川氏。国学の祖とされる人物である。
大坂の今里妙法寺の丯定かいじょうの弟子となった後、高野山で学んだ後、大坂の曼荼羅院の住持となった。この頃から下河辺長流との交流を通し、古典研究を始めた。
が、やがて院を去り、大和の長谷寺ついで室生寺で激しい修行を行った。中でも室生寺では自殺をはかろうとして、岩角から飛び降りて頭から激しく出血するケガをした。
その後、契沖は再び高野山に上り、やがて『万葉集』の注釈である『万葉代匠記』を作り上げた。
若き日の大阪の天王寺中学を落第した折口信夫は、大和を旅し、室生寺の奥の院では契沖に思いをはせたという。
そんな契沖や折口の跡を追って、というわけでもないが、室生寺の神秘的なイメージを個人の中で抱いていたのは彼らに依るところが大きい。
だからこそ門前の観光化した感じにちょっとがっかりしたのはそういう事情もある。
上り始めてから10分くらいであろうか。
ふと見上げると下から見えていた懸造りの堂宇にずいぶんと近づいてきていた。
長谷寺に続く今回の旅では2つ目の懸造りの建物である。
登り詰めると、ここが奥の院であった。納経所と休憩所、御影堂などがある。懸造りの建物は位牌堂のようだ。
懸造りの位牌堂は新しいのか古いのかよくわからなかった。契沖が岩角から飛び降りた場所というのはまさかここではあるまいとは思ったが、下をのぞくと結構な高さがある。
参拝客も次々と登ってくるが、割合静かな場所で清々しい。
しばし、椅子に腰かけ、ぼんやりと遠くの山々を眺めていた。
やがて下山する。五重塔のところでもう一度写真を撮る。
そして金堂下の場所と紅葉が綺麗だ。
予定していたバスより一本早いバスに乗ることにして、バス停に戻った。
1時間に1本しかないこのバス。当初は最終便(16:25)に乗ろうとしたが、到着が早かったこともあり、その前の15:25の便を待つ。
バス停脇の露店でよもぎあんまきや玉こんにゃくを食べているとバスがやってきた。
乗車時間15分ほどで近鉄の室生口大野駅へ着いた。
さあ、日常へ。こうして、また始まる憂鬱な仕事日へ、私たちは戻っていくのであった。
(おわり)
*1:現在の兵庫県尼崎市付近
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