元箱根の石仏群(箱根町)
今年最後の記事にふさわしいネタとなりました。話は今年の11月の下旬のこと。ふと気になった箱根町の元箱根の石仏群を見に行ってきました。 この石仏群は、芦之湯から元箱根へ向かう国道1号線現道(箱根国道)沿いにある中世の貴重かつ、優れた石仏・石塔類のことを指します。 私は学生時代、箱根を旅した際、元箱根へ向かう登山バスの車中から、精進池の独特な景観と屹立する五輪塔などの石塔類を見た記憶があるのですが、とうとう現在まで見学する機会がありませんでした。 今回、ふと思い立って、車で行ってみることにしました。
現地に到着。ビシッと車を停める。
ところが東名と小田原厚木道路(オダアツ)を経て順調に箱根まで来たのはいいものの、まさかの道を間違え、休日の芦ノ湖周辺での渋滞に巻き込まれるわ、ガソリンが底をつくわで、まさかの目的地に到達せずに箱根下山という大失態。 いろいろあって御殿場側から乙女峠を越えて、再度向かったら、もう時刻は15時半… 折からの強風と寒さの中、ようやく見学をスタート…
が、それがかえってよかったのかも。 精進池の畔に位置するその光景は、かつてバスの車窓より見た景色よりもいっどう荒涼としており、人気もなく寂しさが漂う。しかも強風が吹き荒れ、気温も低い。
この地は現在も国道1号が通っているが、中世も箱根越えに利用された湯坂道のルートにあたる。しかし、湯坂道はその名の通り、各所より噴煙が立ち上がる難所であったらしく、人びとに地獄として恐れられた、と云う。 ここに中世来の多くの石仏や石塔が建てられたのは、そのような場所であったからと言えよう。 地獄を思わせるこの地に、地蔵菩薩を中心とする石仏・石塔を建てることで、このあたりが地蔵信仰の霊地となったのだ。 そういった歴史を知ったりする上で、ここには箱根町が建てた仏堂風の見学施設がある。 「石仏群と歴史館」である。
閉館時間(16:00)が迫っているので、まずはここを見学。無料である。
展示パネルはわかりやすく、さらに展示や復元も各所に工夫が施され、素晴らしい施設であった。 箱根町のこの文化財保存に対する姿勢には敬服する。
◆六道地蔵
歴史館の見学を早めに終えると、まずは俗称「六道地蔵」と言われる石仏の見学へ。 なお、この石仏は歴史館から見ると、国道1号を挟んで反対側にあるが、このようにアンダーパスが設けられているので、危険な道路の横断をせずに対岸へ行くことができる。
国道1号の反対側へ出る。位置関係はこの通り。
「六道地蔵」の覆堂。
堂前には石積みがいくつか見られ、雰囲気十分。
覆堂は写真だとわかりづらいが、実物はかなり大きい。 開かれた扉から内部を覗くと…
高さ3.5mの巨大な摩崖仏の地蔵尊が安置されている。
銘文から正安2年(1300)の造像で、国の重要文化財に指定されている。 安山岩製の丸彫りのもので、関東では最大級の摩崖仏である。 一体の石仏群中の本尊といっても過言ではあるまい。 この地蔵の覆堂は元箱根方面から芦之湯へ向かう国道1号からも見ることができるので、車でこの地を通過する場合は、すぐに目につくと思う。 なお、覆堂は現代の復元。
六道地蔵から再びアンダーパスをくぐって、元来た道に戻る。六道地蔵へと至る道の分岐点あたりまで戻ってくると、俗称「八百比丘尼の墓」とされる宝篋印塔の一部(残欠)がある。
こちらも観応元年(1350)の銘を持つ中世期の貴重な遺物だ。
◆応長地蔵
「八百比丘尼の墓」から今度は芦之湯方面へ少し歩くと、国道1号線をバックにした崖に、俗称「応長地蔵」と呼ばれる石地蔵がある。
安山岩に掘られた摩崖仏なのだが、大小2つの龕に合計3体の地蔵菩薩が彫られている。
中尊たる大きい1体は柔和な表情。
至近の宮城野地区では、家族に死者があると、四十九日までにここに家族の者がやってきて、「送り火」を焚く「浜降り」という風習があったという。 このため、この地蔵は「火焚地蔵」とも呼ばれている。 自ら菩薩にとどまり続け、時としては地獄にまで行き亡者を救うという地蔵信仰と民俗の習慣が結びついた非常に興味深い話である。 なお、「応長地蔵」の由来は、大きい中尊の左上に「応長元年」の銘があるためである。
応長元年は1311年で、鎌倉時代後期だ。 下に造像願文が続く。いずれもはっきりと読み取れることができるが、くずし字的なのが珍しい。 普通、石に文字を刻む際は楷書が圧倒的に多いだろうし、くずし字では彫るのも難しいだろうに。
◆「多田満仲の墓」
応長地蔵からさらに芦之湯方面へ足を勧めると、道の真ん中に「多田満仲の墓」と称する大宝篋印塔が立っている。
非常に美しい宝篋印塔で、なおかつ高さは約3mもある。
「多田満仲」と言えば、源満仲のことである。清和源氏・源経基(六孫王)の子で、安和の変で源高明を密告するなど、藤原摂関家と積極的に結びつき、源頼光(摂津源氏)や源頼信(河内源氏)の父である。 源満仲の墓塔は各地に存在するが、なぜ箱根にあるのかはよくわからない。 宝篋印塔の塔身には、3面に梵字が刻まれるが、北面のみ如来像の肉彫りがある。
薬師如来であろうか、阿弥陀如来であろうか、はたまた釈迦如来か。
刻まれた梵字の種字(しゅじ)がヒントとなりそうだ。 なお、基部に永仁4年(1296)と正安2年(1300)の銘が彫られている。
銘文には大和国の石工である大蔵安氏が造立に携わったことや、鎌倉極楽寺の良観(忍性)が供養導師を務めたことなどが見える。 ただ、銘文自体は摩耗がすくないが、現地では読み取ることは非常に厳しかった。 忍性の名前を見つけようとしたが、とうとう断念した。 写真解析でも無理であったので、拓本をとらなければわからないだろう。 中世の銘文を持つ宝篋印塔では、関東で最古のものであり、国の重要文化財に指定されている。
◆二十五菩薩
「多田満仲の墓」から北へ進むと、国道1号の西側にある崖に、26体の摩崖仏が彫られている。
摩崖仏自体はほとんど地蔵菩薩のようだが、「二十五菩薩」の通称がある。
小さい龕をうがって、肉彫りの摩崖仏が数か所ずつかたまって存在している。
これまた永仁元年(1293)および永仁3年(1295)の記銘を持つ中世の摩崖仏で、大変貴重だ。 硬い安山岩に彫られ、摩耗が少ないこともさることながら、そもそもが大変美しい像容であることは否めない。
◆曽我兄弟の墓
二十五菩薩から北へ進むと、再び国道1号のアンダーパスがある。ここをくぐり対岸へ出ると「曽我兄弟の墓」と称する3基の大五輪塔がある。
ここが一通り見てきた元箱根石仏群のラストポイントとなる。
この五輪塔は有名なので、以前、本でその存在を知っていた。また、バス停が至近にあるため、国道1号の車窓からもかつて見たことがあった。 いずれも約2.5mほどの大五輪塔で、寄り添うようにして近接する二つの五輪塔が「曽我兄弟の墓」、少し離れて立つ五輪塔は「虎御前の墓」とされる。
「虎御前の墓」には、永仁3年(1295)の記銘があり、やはり中世期の大五輪塔であることがわかる。「曽我兄弟の墓」は水輪部に地蔵菩薩の肉彫りがある。
曽我兄弟と言えば、曽我の十郎・五郎、曾我祐成と曾我時致の仇討ちの話が有名である。 虎御前はその母である。
曽我兄弟の墓塔と称するものも、何か所かあるが、やはりこれもなぜここに、という疑問は残ったままであった。 …と、いうわけで元箱根石仏群では中世の美しい石仏、石塔を見ることができた。 戻るぞー
しかし、この日はすさまじい強風。そして寒さ。人気のない荒涼とした雰囲気に、往時の旅人たちの見た「地獄」を実感できる日であった。
車に乗り込みふと気づくと、「六道地蔵」のバス停が倒れていた。
来た時は確かに立っていた(ドライブレコーダーを見返して確認)。 強風で倒れたのか、倒れることを想定して管理者が倒しておいたのか。その後は不明。
◆おまけ
戸塚の大踏切が廃止された今、たぶん国道1号唯一の踏切となった小涌谷の踏切。
ここから箱根下山はすさまじい渋滞であった。普段は箱根から帰る時は、箱根新道を使うため、宮ノ下の交差点までの猛烈渋滞は経験がなかった…迂闊だった。 さらに小田原厚木道路で東京へ向かうと…
東名・海老名ジャンクションでの事故により、今度は小田原厚木道路が平塚インターの先からすさまじい渋滞。 実際には2km40分どころではない。 厚木西インター付近から厚木インターにかけては一切動かない、という猛烈さ。 ここの通過に3時間かかりました。 平塚か伊勢原あたりで降りるという選択肢はあったものの、判断が遅かった… どうせ「海老名や厚木の渋滞など毎度のこと」と舐めてました。ここまでひどい渋滞であると先にわかっていたら、大磯あたりで流出、134号・藤沢バイパス、横浜新道、第三京浜を使った遠回りをしたって、自宅まで3時間はかからなかったはず。 帰宅は深夜となってしまいましたとさ。
(おわり)
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