三ノ宮比々多神社(伊勢原市)
仕事を、辞めたいと思った。忙しいうえに、いろいろなことでいっぱいいっぱいになっていた。一昨日はこの職場を今年度いっぱいで辞めようと思った。辞めると決めたら、気がずいぶんと楽になった。
だが、昨日仕事に行ったら、辞めても次の職場の当てもないことに気づいた。
ずっと、ここで、定年まで働くのか…そう思うと、せっかくの休日なのに、再び暗夜に迷うかのような重い重い空気に、気分も晴れなかった。
そんなこんなで、久しぶりに外に出かけることにした。
やってきたのは神奈川県伊勢原市にある比々多神社。
前の職場の時から、憂鬱な日曜日は相模平野に繰り出すことが多い。
比々多神社。
以前より、比々多神社という、やや聞きなれない変わったネーミングの他に、同名の神社がこの付近に複数あることが気になっていた。
区別するためか、こちら伊勢原市三ノ宮に鎮座する比々多神社は、「三ノ宮比々多神社」と書かれる場合が多いようだ。
駐車場は広い。
そんな「三ノ宮比々多神社」と書かれた看板が点在しているため、道には迷うことはなかった。
駐車場も広く、複数箇所あるようで車を止める場所には困らないであろう。
それにしてもマイナーな神社だけに、訪れる人も少なそうだと思っていたら、結構頻繁に車がやってきて、参拝者の姿も予想したよりは多い。
地元の人がほとんどであろうが、意外なことであった。
この日は強い雨が降ったりやんだり。憂色の相模平野はさらにどんよりとした重い雲の下に。
入り口には「夏詣(なつもうで)」の提灯が。いろいろ工夫されている様子。
「夏詣」とは何だろう
手水舎があったが水は出ておらず、柄杓も置かれていなかった。新型コロナウイルス感染拡大防止のためであると思われる。
境内に入ると茅の輪が設置されていた。茅の輪とは夏越(のごし)の祓(はらえ)の際に置かれるもの。夏越の祓は旧暦6月に行われるもので、茅の輪をくぐることによって一年の半分のケガレを落とす。
そういえば、このろくでもない2020年も半分が終わってしまった。
神社なのに鐘楼が
ふと見ると鐘楼がある。神社なのに…
おそらく神仏習合時代の名残であろうか。そう断じてしまってあまりよく見なかったのが残念。
後から調べたところ、もともと染屋太郎大夫時忠のことが書かれていたという梵鐘があったが、太平洋戦争中の金属供出で失われ、現在あるものは昭和25(1950)年に再興されたものであるという。
染屋太郎大夫時忠…
鎌倉などをはじめ、相模国の古い話にたびたび登場するこの男の名前。
それに関する梵鐘が戦争で失われたとは……
なんとも言語に絶することだ。戦争は本当に愚かなもの。
残っていてほしかったな…
染屋太郎太夫時忠は、大仏建立に尽力した東大寺の初代別当の良弁(ろうべん)の父である、と伝えられている人物。詳細はわかっておらず、あるいは伝説上の人物なのかもしれない。
「由比の長者」と称され、鎌倉にはその娘が由比ヶ浜で遊んでいたら大鷲にさらわれてしまい、行方不明になってしまった、という話から、各地に伝説が残る。
例えば、娘を探し回った時忠夫妻が道端に落ちている骨や肉片を見つけては、「もしや娘のものかも」と塔を建てて行き、鎌倉内に七か所の塔ができた(塔の辻)、西御門来迎寺の如意輪観音(旧法華堂所蔵)には時忠の娘の骨が納められた、六国見山の稚児墓は、時忠の娘の墓…などなどだ。
一方の、その時忠の子と伝えられる良弁も、幼いころに鷲にさらわれて、奈良まで運ばれてしまい、二月堂の前の杉の木にひっかかっていたのを義淵に助けられ、僧になった、という伝承がある。
なんやかんや、時忠と鷲の伝説がかかわってくるのはなぜなのであろうか。
なお、良弁は大山寺を開いたともされており、大山の麓には良弁が修行したという良弁滝がある。
こちらは神楽殿らしい。いい感じの建物だね。アジサイもきれい。
こちらが拝殿。結構、背が高い建物。
鈴緒(すずお、鈴を鳴らすための紐)は、これまた新型コロナウイルス感染拡大を防ぐために使用できないようになっていた。
『延喜式神名帳』の「相模国大住郡 四座 並小」の中に「比々多神社」が見えている。
ただ、同名の神社が神奈川県伊勢原市上粕谷にもある。いわゆる論社というやつだが、こちらのほうが有力かと思われる。
相模国の三の宮であったことから、三ノ宮が付近の地名となっている。
神楽殿に立てかけられた幟があった。
「三之宮冠大明神」という神号が書かれている。他の方の撮った写真によると、この幟は従来、神社の拝殿前に立てられていたもののよう。
ここのところ雨続きで、ここに避難しているのであろうか。
「冠大明神」の神号は淳和天皇より賜ったものとされる。
現在の祭神は豊国主尊、天明玉命、雅日女尊、日本武尊で、相殿に大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)を祀る。
もともとはこの付近の代表的な霊山であり、相模平野のシンボル的な存在の「雨降山(あふりやま)」こと大山に対する信仰から形成された神社なのではないか、とされている。
「冠大明神」という神号もなんとなくそれを思わせるね。
さらに言えば、もっと昔の縄文時代の遺跡が見つかっている。かなり原初的な時期からこの地で祭祀行われていたのであろうか……
大山に抱かれた実に由緒正しき信仰の地である。
246を通るたびに気はなっていて、長年、行きたかった比々多神社。ようやく行くことができてよかった。
しかし、そうなると、もう一つの比々多神社のほうも見なければならない。
(続く)
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