高野山金剛峰寺(高野町)
これはもう1年も前のこと。2022年3月、私たち夫妻は初めて奈良県の吉野と和歌山県の高野山を訪れた。年度も末の忙しい最中、例によって仕事終わりに新幹線に飛び乗って2泊3日の強行軍。それでも桜と南朝遺跡に名に負う吉野の地と、日本密教の総本山たる高野山をこの目で何とか見たいと思い続けていた。今回はそのうち高野山の旅の思い出を記事にする(ちなみに吉野訪問はこの前日だった)。
前日、吉野の訪問を終えた私たちは近鉄線で吉野口駅まで北上。
吉野口駅はローカル線の寂しい駅と思いきや、建設の経緯からここでJR和歌山線との対面乗り換えが可能となっている(ダイヤも近鉄⇔JRの接続が考慮された形となっている)。
ここで五条行きの和歌山線電車に乗り換え。五条で30分程度待って、今度は和歌山行きに乗り換えると、電車は県境を越えて、和歌山県北部、高野山の麓に位置する橋本に行くことができる。
橋本のビジネスホテルで一泊。翌日、今度は橋本駅から南海電車(高野線)の特急で高野山入りを果たした。
とは言っても南海電車の終点は、九度山を経て谷沿いにうねうねと進んだところにある山の入り口たる極楽橋までで、ここからさらにケーブルカーと南海りんかんバスを乗り継いでようやく山内に入ることができる。
中世期に上皇(法皇)までもが熱心に参詣した高野詣。
その頃と比べればバスや鉄道の恩恵を受けられる現代の高野詣は格段に楽になり、大阪から1時間半ほどでここまで来ることができるのだから、まあ当時の人と比べると気楽なものだ。
しかも鉄道、ケーブルカー、バスと目まぐるしく変わる交通手段とどんどん山に入っていく車窓も楽しいので飽きないのだが。
ところで私の高野山に関する知識というのは、非常に断片的なものであった。
まず、中学生の時の授業で最澄(伝教大師)の開いた天台宗の比叡山とともに、空海(弘法大師)の開いた真言宗の高野山という知識が入る。
そこから高野山は真言宗密教の拠点としてあまりにも有名な存在で、それほどそこを気にすることはなかった。
しかし、同じく中学生の時か、あるいは高校生の時の日本史の授業で、高野山は山全体が宗教都市であり、お寺の境内の中に役場も消防署も警察署も郵便局もある、という知識を得た。
その頃から比叡山とは違って、高野山という名前の山はなくて、高野山というのはなんとなくその地域一体のことを指す広域地名なのだ、ということを薄々感じ取り始めていた。
大学生になると、一般教養の授業(宗教史かなんかだった)で大学の先生が「高野山の山内には居酒屋もある。そこではお坊さんも普通にお酒を飲んでいて、『いいんですか?』と聞いてみると、『誰にも言うなよ』と口止めされた」という嘘だか本当だかわからない笑い話をしてくれた。そこから宗教都市・高野山のイメージがだいぶ私にもついてきた。
しかし、私にとっての高野山のイメージの最たるものは大好きな上田秋成の小説(読本)『雨月物語』の中にある「仏法僧」の中で語られる雰囲気であった。この作品を読まなければ高野山など物見遊山程度の思いでしか行かなかったであろう。
しかし、「仏法僧」で主人公・拝志夢然が豊臣秀次らの亡霊(中には生霊もいる?)と出会うあの場面は強烈に高野山を私の中に印象付けたのであった。
史学科に属した大学時代、私も自身の研究の中で高野山の文書を調べた機会が何度かあった。その時も高野山には行ったことがなかったから、この寺の中世の様子のイメージなどつくはずもなかったが、その中で高野山に「壇上伽藍」という地区があることを知った。
後から知ったのは高野山を構成する主な地区は「壇上伽藍」と「奥の院」である。
なお、先に述べた上田秋成の『雨月物語』、「仏法僧」の舞台は「奥の院」である。
なお、この過程で「膝下荘園」という歴史用語を知った。
膝下は「お膝元」という意味であるから、たぶんある荘園領主の拠点に近い重要な荘園という意味であろう。
別に高野山に限らず「久世庄は東寺の膝下荘園で…」とかそういう言い方をするので、ある荘園領主にとって重要な荘園をどこでもそういうのだろう(もちろん、学術用語で学者が論文の中で使う言葉である。当時の言葉ではない)。
紀伊国には高野山の所領も多かっただろうから、自然に高野山文書を調べて、関連する論文にあたっていくうちに「膝下荘園」という言葉に出会ったから、私にとって「膝下荘園」というと、高野山領のことをまずイメージしてしまう。
さてさて、それより壇上伽藍を見ていると、建物自体は近世期の再建と、近代の再建が多いように思われる。
ここが中世の建物がゴロゴロしている比叡山延暦寺とは大違いなのだ。
(なお、そんなことをしているうちに、山内でも唯一?貴重な中世の建造物(14世紀創建)の不動堂の写真を撮り忘れる)
そりゃあ、例にもれず、何度も火災には遭っているだろうが、それにしてももう一つの日本密教の雄・天台宗の総本山延暦寺と比べると、ずいぶん中世期の建造物が少なすぎないかい?
なぜだろう、と考えてみた。
確か比叡山と言えば、織田信長に攻められているはず(紀州征伐、高野攻め)。
だけど、比叡山の焼討ちと比べれば、高野攻めは結構中途半端だったような。
そう思って調べてみると、近世期の火災が多すぎるのと、明治・大正・昭和と近代に入っても3回も大きな火災に見舞われていることがわかった。
特に昭和の大火(昭和元年(1926)、12月26日発生)で金堂(万延元年(1860)再建)が焼失し、本尊を筆頭にあまたの仏像が焼け落ちた火災の被害は特に甚大であった。
まあ、建物の古さがすべてではないし、近世及び近代の造営が多いにも関わらず、檜皮葺の屋根が多いので、素人目には中世期の建物のようにも見えてしまう。
そして、何より高野山という一大宗教勢力が築き上げてきたものが、21世紀の現代にもなおこうして生きている、という点もここを訪れる最大の理由であろう。
長くなったので、あとは流しで。
あわれ刈萱道心と石童丸の説教節で有名な刈萱堂。壇上伽藍から奥の院へ向かう途中のバス通りの脇にある。山内で父子再開するも、決して父であることを語らなかった刈萱道心と石童丸の一代記を飾ってある堂内は独特の雰囲気なので絶対に入るべし。
途中からバスに乗り、とうとう奥の院へ。
ここからは『雨月物語』「仏法僧」の主人公・夢然の気分で。
そうしていよいよ私たちはこの山に今なお眠る弘法大師・空海の廟前へ進むのだ!
なお、高野山は密教の総本山という位置付けと同時に「日本総菩提所」としても有名だ。
往古から庶民、貴族、戦国大名、徳川家までとありとあらゆる人が高野山に墓(納骨所だったり、供養塔だったり)を作る風習を持ち、現代では企業(結構大手の企業も含む)も墓を構えているところが面白い。
各企業の墓は自社のロゴだったり、商品を模したデザインの墓石が飾られていたりして面白い。
そんな道を抜け、いよいよ大師の廟前へ進む。
写真はここまで。この後、玉川の橋を渡り、灯籠堂を経て、弘法大師の廟に進むが、御廟橋から先は撮影禁止である。
夢然たちが豊臣秀次の幽霊を見た灯籠堂はコンクリート造になってしまっていたが、とにかく内部から大師の廟前に至るまでは荘厳過ぎて言葉を失った。
誰もが一度はここへお参りした方が良いと思う。
正確には大師はここに入定しているといい、今も毎朝、食事が届けられている(本当に)。
こうして感動的な大師との出会いを果たした私たちはまたバス、ケーブルカーを乗り継いで極楽橋まで出ると、そこから南海の特急で一気に大阪まで戻り、新幹線で東京に帰った。
しかし、壇上伽藍では見逃したものもいっぱいあったし、奥の院もまだまだ見逃しているものがいっぱいあったと思う。
今回は偵察程度。たぶん高野山はまた来ることになると思う。
吉野と合わせて、この旅は本当に感動的であったので記録のために、今回1年前のことだが、こうして記事にしておいた。
(終わり)
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