竹寺に行ってきた1
仕事は大変忙しいのですが、先週の日曜日は久しぶりに寺社巡りに行ってきました。
場所は、以前から気になっていた埼玉県は飯能の山奥にある竹寺というところ。飯能の市街地から、秩父の方向へ向かい、途中で名栗(旧入間郡名栗村、現飯能市)の方向へ向かいます。そこから林道のような狭隘な道を通り、目的地へ…こうして着いた竹寺の入り口です。
竹寺直前の道は、林道どころか、完全な山道でした。
SUVではない、普通の乗用車にはかなり厳しい道…本当にあちこちこするかと思ったが、意外と大丈夫でした。
こうしてついた竹寺。現在も残る神仏習合の寺として知られています。
入り口には茅の輪がある。
茅の輪は、夏が近くなると神社の社殿近くに設置されることが多いものです。
これをくぐると、災厄などから逃れられると言います。
このあたりから、すでにお寺なのに神社色が強い感じが出ています。
駐車場にはすでに先客あり。
山奥なのに、自販機あり。登山客用なのでしょうか。
神仏習合とは、日本において奈良時代あたりから広まっていった仏教と神社の融合現象のことです。
もともとあった日本の在地信仰(=神)と、外国から来た仏教(=仏)。
この両者が、対立を乗り越え、お互いの発展のために結び付いた現象で、古代・中世・近世と日本において普遍的な信仰形態でした。
しかし、明治の新政府は、この神仏習合を否定し、神仏分離を実施します。
この政府の方針により、全国の神社から仏教的な要素が排除され、多くの仏像、仏具、経典やお寺が棄却されました。
また、これに伴い、仏教排斥運動である廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が全国で起こりました。
地域によって違いがあるものの、これは政府の意図とは離れて寺院や仏像、仏具の破壊運動に展開していきました。主に扇動したのは、尊王的な志向の強い藩や国学者、そして神官たちです。
こうして失われた寺院や貴重な仏像、仏具類は数知れず、また廃仏毀釈のために海外へ流出してしまった文化財も数多くあります。
鳥居。これもお寺なのに神社的な要素。
こうして現在では神仏習合という現象は、まったくなくなってしまったかのように思われますが、ここ竹寺ではいまだに神仏習合の形態をとっているのです。
寺号は正確には「八王寺」らしい。
境内入口の石柱には「牛頭天王(ごずてんのう)」と堂々と書いてあります。
しかし、廃仏毀釈は、近世に絶大な権力を持っていた寺院に対する反動であったようです。
そうなると、山奥の祈祷寺のような寺は、あまりそんな反感を集めなかったのでしょうか。
こうした山奥の祈祷寺ほど、神仏習合が色濃く残っているような気がします。
高尾山のようにさっさとお寺としての立場を明確にして生き残る場合もあります。
また、埼玉県には廃仏毀釈があまり激しくなかったのか、神仏習合の形態が残っているところが多いような気がします。
境内に入ります。
さて、その竹寺が祀るのは牛頭天王(ごずてんのう)という神です。
もともとはインド由来の神ですが、仏教に取り入れられて日本にやってきました。
この神は祇園信仰で祀られる神であり、疫病を流行らせる神なのです。
ですが、これをかえって祀ることによって、疫病を防ごうとする御霊信仰的な信仰が生じ、それが平安京では、祇園御霊会というお祭りに発展し、そこから京都の町の祇園祭が生まれます。
しかし、神仏分離後には各地にある牛頭天王を祀る祇園社は、素戔嗚(スサノオ)を祭神とする八坂神社や八雲神社に置き換えられていきます。
境内には牛頭天王を彫ったトーテムポールのようなものが。
でーん。
銅像も。
そんなこんなで、本殿へ参ります。
(つづく)
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