先日、人が尋ねてきてくれたときに、久しぶりにアップルパイを焼きました。りんご、チョコレート、栗はわたしの大好物で、チョコレートは上質なものを少し食べれば満足感が長続きするようになったのですが、りんごと栗は主食でも良いと思えるほど好きです。そんなわたしも「仁さんのお漬物」を教わって漬けるようになり、食べるようになったら、「ごはん、味噌汁、漬け物」で満足できるようになって、味噌汁や漬け物が食卓に並ぶ習慣の無い家にそだったことが嘘のようです。
田舎に引っ越しして、移動のためであっても「街なか」を通ることが減ったことも関係しているとは思いますが、もうひとつ「物欲」が減りました。見れば「欲しい!」と感じることはもちろん今も多々あるのですが、「必要かどうか」を考えるようになり、「欲しいけど、今は必要じゃない」と「選ばない」という選択をすることが増えました。欲しいものを選び取る選択をすると際限なくモノが増えます。モノが増えると空間が減ります。空間が減ると心に余裕がなくなります。引っ越しを重ねて、理想の住まいに近づくにつれ、「身を置く環境」の大切さがわかるようになったのかと思います。
そんなわたしの最近の関心事は「自己啓発セミナー」のこと。行こうかどうか迷っているという話ではなくて、どうすれば高額なセミナーに時間とお金を捧げずに済むのか、あとで「騙された」と思う人を減らせるのか(できればゼロにしたい)、です。
自己啓発そのものが悪いとは全く思っていなくて、どのメソッドにも効果やメリットなどいろいろあるのだと認識します。ただ、その「仕組み」が嫌なのです。ネットワークビジネスと同じで、「良いもの」として「善意」ですすめてくることに「嘘」は無いのでしょう。でも「良いもの」であることと「今、必要かどうか」そして「お金と時間をつぎ込む優先順位としてそれをトップに持ってくる余裕があるのかどうか」は、全く別のことだと考えます。
勧める人は、それを広めることが世界・社会・環境・人間関係を良くすることになると信じ、いわば「世直しの一翼を担っている」くらいの「使命感」すら持っているようで、批判的な意見は哀れみを持って排除します。洗脳されているといっていいでしょう。
ちょうどそんなとき、清水友邦さんがfacebookに以下の投稿をされました。とっても長いのですが、全文引用します。
ネットワークビジネスの体験を幾つか紹介します。
小学校1年生くらいの幼いときに、うちでアムウェイ商品の紹介の会がありました。母の知り合いたちが4〜5名来たかと思います。そこで「手が荒れにくく、環境にも良い食器洗い洗剤」が紹介されました。チェリーの香りがほんのりする、液体洗剤です。それで野菜も洗える、食器の油汚れもしっかり落ちるけど手荒れはしにくい、環境にも良い…と商品のメリットが熱く語られました。そして「これで歯を磨いたって大丈夫」と言われたときにそれを横で聞いていたわたしは即座に歯ブラシを取りに行って「磨いてみるからつけて」と歯ブラシを差し出したのです。セールスマンの女性は青くなって、部屋の空気が凍りつき、母に「あっちに行ってなさい!」と追い払われました。このときわたしは「売るためならでまかせの嘘を言う人がいる」ことを理解しました。
わたしは「お化粧」はしません。せいぜい眉を書き足すくらいです。理由は「必要性を感じていない」からです。ところが、「これなら大丈夫」「お化粧だけど同時にスキンケアができるの」とご親切に勧めてくださる方はたびたび現れました。「ありがとう、でも必要ないの」で済ませてきました。ところが、わたしのボディワークのセミナーを受講してくださった方で「どうしても聞いてもらいたいことがある」と練習会のあとに時間をとって喫茶店でふたりで会うことになったときのことです。わたしは健康相談などもしていていろんな困りごとをいろんなルートで持ち込まれるので、なにか困っていることでもあって、みんなの前では話ができないのだろう…と勝手に解釈というか予想して行ってみたところ、「化粧品のセールス」が始まったのでした。
人体や環境に有害なものは一切使っていない。化粧であると同時にスキンケアができる。会員になると少しやすくなるなど一通り話を聞いて「わたしがこれを買わないとあなたは困りますか?」というわたしの質問に戸惑った様子で返答がありません。「他の人の前では話せない悩みなどありますか?」と訊くと「困っておられるのかと思って…」とおっしゃる。「困っていないし、必要ありません」としか言えませんでした。
今思うと、これらの経験が「必要なものを必要なときに」という買い物をするときの基本姿勢を形作ってくれたように思います。
「必要なものを必要なときに」というのはワクチンでも言えることで、わたしが「反ワクチン」ではないことは聞きに来てくださった方はわかると思います。科学的に本当に有効なのかどうかの検証は時間をかけて行われるべきだと思いますが、現状ではある程度の有効性を発揮する状況もあるわけで、たとえば難民キャンプのような公衆衛生上の問題があるところで小児のワクチンがあれば防げる事態もあるでしょう。幼い子供をつれて、医療アクセスの良くないジャングルのようなところへ出かけるときには、破傷風や狂犬病のワクチンを勧めることがあります。中南米やアフリカで技術指導、教育関連のしごとをなさる人には黄熱だけではなく髄膜炎菌のワクチンを勧めることもあります。こういう「必要性」を判断できる情報の無い中で「定期(だけど義務ではない)」接種という健康被害がおきたときの責任が曖昧なやり方が気に入らないだけです。
【必要なものを必要なときに】
という簡単な約束をみんなが自分にしてしまったのでは、ものは売れません。だから広告があって、「これを使えば◯◯になれる(ないと✕✕と思われますよ)」というような高揚感と脅しがセットになったような雰囲気で欲望を刺激して「買わせる」のです。
どんなに素晴らしい商品であっても、「今それが必要かどうか」「それを購入する金銭的な余裕があるかどうか」を考えれば、身の丈にあった必要を満たすものを購入するほうがQOL全体を見渡すと満足度は上がると思います。「用は足りているけど、それが理想的だと言われたので、家計的に無理を承知で購入しました」というのは、食費や時間(パートの時間を増やすとか)にしわ寄せが行って、しんどい思いをすることになるのです。
どんなに素晴らしいセミナーでも「今それが必要かどうか」「お金と時間の使い道として優先順位はどうなのか」そこを考えるスキを与えず「とにかく良いのだ」「これさえあればハッピーになれるのだ」「今このチャンスを手にしないあなたは愚か者である」というような雰囲気で迫られれば、冷静な判断はしにくくなるというものです。しかも、彼らは本気でそれを「世直し」「救済」「善行」と信じ「善意」があふれる表情と身振り手振りと言葉で迫ってくるのです。その人に「今それが必要かどうか」だとか、その人の経済状況だとか、家庭の状況(ケアすべき老親や幼い子供がいるとか…)などお構いなしに勧めてくる人は「洗脳」されていると言っていいでしょう。
欲求は必要があって生じるものです。満たされれば欲求はおさまります。
欲望は必要かどうかに関係なく刺激されて生じるものです。欲望を刺激するものとの接触が続く限り止むことはありません。
人は欲求も欲望も持ちます。欲求や欲望それ自体には善悪はありません。そもそも明確に分別できるものでもありません。「欲しい」のうち20%の欲求と80%の欲望が同時に存在しているようなことは普通です。「必要かどうか」を自問したときにわかるのはたぶん欲求のほう。欲望は「必要かどうか」に関係なく「どれほど魅力的に感じるか」で湧き上がります。
「魅力的に見せる」のは「本当に魅力的だと信じている」人にとって簡単なことです。疑いなく、善だと信じて、魅力をアピールし、欲望を刺激してくるのです。
悪意など全くありません。
けれど、悪意があろうがなかろうが、暴力です。
相手のことを思って行う「しつけ」と称した体罰が存在するように悪意のない暴力は存在します。
差別だとわかっていて差別する人などめったにいないのと同じで、自覚のない暴力は存在します。
相手の状況(必要性や経済的状況)を顧みることなく、お金と時間を使わせるように働きかけ、実際に使わせることは、相手を尊重しているとは言えません。少なくとも、「魅力をアピールするための時間」は、必要性を無視して時間を使わせる(奪う)という暴力になっている可能性が高いです。
選ぶとき(特に高額なもの)には「選ばない」も選択肢におきながら、「必要性」を自分に問いかけて、優先順位を多角的に決めてたいものです。