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「選ぶ」こと、「欲」のこと

先日、人が尋ねてきてくれたときに、久しぶりにアップルパイを焼きました。りんご、チョコレート、栗はわたしの大好物で、チョコレートは上質なものを少し食べれば満足感が長続きするようになったのですが、りんごと栗は主食でも良いと思えるほど好きです。そんなわたしも「仁さんのお漬物」を教わって漬けるようになり、食べるようになったら、「ごはん、味噌汁、漬け物」で満足できるようになって、味噌汁や漬け物が食卓に並ぶ習慣の無い家にそだったことが嘘のようです。

田舎に引っ越しして、移動のためであっても「街なか」を通ることが減ったことも関係しているとは思いますが、もうひとつ「物欲」が減りました。見れば「欲しい!」と感じることはもちろん今も多々あるのですが、「必要かどうか」を考えるようになり、「欲しいけど、今は必要じゃない」と「選ばない」という選択をすることが増えました。欲しいものを選び取る選択をすると際限なくモノが増えます。モノが増えると空間が減ります。空間が減ると心に余裕がなくなります。引っ越しを重ねて、理想の住まいに近づくにつれ、「身を置く環境」の大切さがわかるようになったのかと思います。

そんなわたしの最近の関心事は「自己啓発セミナー」のこと。行こうかどうか迷っているという話ではなくて、どうすれば高額なセミナーに時間とお金を捧げずに済むのか、あとで「騙された」と思う人を減らせるのか(できればゼロにしたい)、です。

自己啓発そのものが悪いとは全く思っていなくて、どのメソッドにも効果やメリットなどいろいろあるのだと認識します。ただ、その「仕組み」が嫌なのです。ネットワークビジネスと同じで、「良いもの」として「善意」ですすめてくることに「嘘」は無いのでしょう。でも「良いもの」であることと「今、必要かどうか」そして「お金と時間をつぎ込む優先順位としてそれをトップに持ってくる余裕があるのかどうか」は、全く別のことだと考えます。

勧める人は、それを広めることが世界・社会・環境・人間関係を良くすることになると信じ、いわば「世直しの一翼を担っている」くらいの「使命感」すら持っているようで、批判的な意見は哀れみを持って排除します。洗脳されているといっていいでしょう。

ちょうどそんなとき、清水友邦さんがfacebookに以下の投稿をされました。とっても長いのですが、全文引用します。

80年代ころから、自己実現セミナーや自己啓発セミナーなどの、商業主義的セラピーが行われるようになりました。

大きな特徴は、マニュアルに基づいた行動主義的な構造をもち、エンロールメントと呼ばれる、セミナー未経験者、初心者が卒業生に囲まれて勧誘される事にありました。

友達に誘われて参加したビギナー参加者は、次回の中級セミナーの高額なセミナー料に驚いて即断できないでいると、何人ものセミナー信者に囲まれて口説かれます。

「こんなに素晴らしいセミナーをどうして申し込まないの」

「本当に自分を変えたいと思っているなら、ここでセミナーを申し込むことからから始まるのよ」

「そうやって、決断を先延ばしにしてきたのが、あなたの今までの人生だったのよ」

「思い切ってセミナーを申し込むこと。そこから何かが始まるのよ」

ほとんどの人は、刺激ー反応の機械的なマインドを持っているので、存在の力がついていない人々は、新興宗教の信者のようにセミナーに依存していったのです。

これらの、商業主義的セミナーのルーツは、60年代のアメリカで始まったヒューマンポテンシャル ムーブメント(人間性回復運動)にありました。

1960年代は、人類の意識に大きな変化が訪れた時代です。

1961年4月12日に、ガガーリンはボストーク 1号で大気圏外に出て地球を眺め、1969年にアポロ11号のアームストロングとオルドリンは、月面から地球を眺めました。

初めて人類は、自分の本当の姿を認識したのです。

60年代は、地位や名誉や経済的な成功にあった、アメリカ人の価値観とライフスタイルに大きな転換が起きて、自己実現、自己成就とする主観的なものに移っていった時代です。

アメリカ西海岸のエサレンでは、シャーマニズム、チベット密教、禅、ヨガなどの、東洋の修行法と西洋のサイコセラピーが融合したワークショップが盛んに行われるようになりました。

70年代は、エサレンのセラピストがインドのデカン高原のラジニーシ・アシュラムに大挙して訪れ、瞑想とセラピーとボディワークの融合が起きました。

東洋の修行法と西洋の心理療法の融合が、世界中で起きたのです。

そのようなヒューマンポテンシャル ムーブメント(人間性回復運動)の流れの中から生まれた、セラピー・グループを受けた人々が大勢いました。

2012年のロンドンオリンピックの開会式で演奏した、マイク・オールドフィールドもその一人です。

マイク・オールドフィールドの初期の3部作は、スタジオにこもってオーバーダビングを何百回も繰り返して録音した繊細な作品でした。

マイク・オールドフィールドは、小さいころから自分が存在していることが不安で怖くなることがあり、パニック障害の症状を何度も起こしていました。

発作が起こることを想像するのも怖かったので、自分に唯一できることは、不安を忘れるほど音楽にのめりこむことだったと語っています。

彼の音楽は、映画に使われ大ヒットしますが、その成功が負担となり、彼のやわな神経はダメージを受けてしまいました。

マイク・オールドフィールドは、極端に厭世的になり、数年間、精神的に参って療養していました。

そんな時に、マイク・オールドフィールドはエスト(est)の流れを汲むエクセジーセス(Exegesis)というワークを受けました。

その結果、マイク・オールドフィールドは、神経質で内向的な傾向から快活で、外向的な性質に変貌しました。

それまで、マイク・オールドフィールドは、部屋に一人でこもって様々な楽器を演奏して長い曲を作っていましたが、セラピーの後は大きくロック、ポップス調の短い曲に曲調が変わり、バンドを組んで人前でライブでやるようになったのです。

ワーク後に、出したアルバム名が露出を意味するExposedです。

その頃、実際にヌード写真も発表しています。

マイク・オールドフィールドは、4回結婚して4度離婚して子供が9人いますが最初の結婚相手は、エクセジーセス(Exegesis)の代表ロバート·ドービニーの妹ダイアナ・ドービニーでした。

エクセジーセス(Exegesis)が、どのようなワークだったのか詳細はわかりませんが、その元と思われるエスト(est)は、「コンテンツ」(内容)から「コンテクスト」(背景)へとトランスフォームさせる、つまり意識の方向性を思考や感情から、存在(Being)へと転換させるセミナーだったようです。

エスト(est)とはエアハード・セミナー・トレーニングの略で自己啓発セミナーの源流のひとつです。

エスト(est)を始めた1935年生まれのワーナー・エアハードは、本名をジャッ ク・ローゼンベルグと言い 、父親は フィラ デルフィアでレストラン経営者 していたユダヤ教徒で、母親は監督派教会(米国聖公会) のキリスト教徒でした。

ワーナー・エアハード(ジャッ ク・ローゼンベルグ)は、1953年に結婚して子供がいましたが、1960年に別な女性を好きになりに最初の妻子を捨てて、逃げてしまいました。親戚縁者からの追跡を逃れるためにワーナー・エアハードに名前を変えました。

エスト(est)を始める前のワーナー・エアハードはブックビジネスや中古自動車で成功した優秀なセールスマンでした。

彼はセントル イスでセールスの仕事をしながら、成功哲学のナポレオン・ヒルや自己イメージを変えることで目標を達成するマックスウエル・マルツの「サイコ・サイバネティクス」を研究していました。

ワーナー・エアハードは、売り上げが悪い営業社員が他者に対して罪悪感や不満を抱いていて、その事が成功を妨げていると考えていました。

ある日、ワーナー・エアハードは、ゴールデン・ゲイト・ブリッジで至高体験(peak experience)が起きますが、彼が悟り(enlightnment )と思ったものは長続きせず喪失してしまいました。

体験者がいる体験は、必ず過ぎ去ってしまいます。

彼は、自分の至高体験の何が一体自分に起きたのか、それを再び蘇らせるにはどうすれば良いか、人間性心理学やヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメントに求めました。

1961年、ワーナー・エアハードはサンフランシスコのエサレン研究所を通じてカール・ロジャース、アブラハム・マスローを知り、アラン・ワッツを通して「禅」を知りました。

『もしあなたが、「お金を稼ぐことが最も大事なことだ」と言っているとしたらあなたは完全に人生の時間を無駄に過ごしていることになる。

生きるためにしたくない仕事をしてお金を稼ぐということをしていれば、それをやり続ける人生になる。

それは実に馬鹿げている。

そんな惨めな状態で長生きするより短い人生でも好きなことをやって過ごした方がまだマシだ。

結局のところ、どんなことでもいい。

本当に好きなことを一生懸命やっていればあなたは必ずその達人になるだろう。』

アラン・ワッツ

アラン・ワッツは、ワーナー・エアハードに「セルフ」と「マインド」の区別を教えました。

それからデール・カーネギーのコースやハリウッドのセレブ達が信奉しているサイエントロジーを受けました。

ワーナー・エアハードは人生の本質が「成功」ではなく「満足」にあることを発見しました。

ワーナー・エアハードがエスト(est)を始めるとサイエントロジーから概念を盗んだと非難されました。

1970年 にワーナー・エアハードは エスト(est)の構成と似ているアレクサンダー・エベレットが開始したマインド・ダイナミックス社のインストラクターになりました。

1971年11月から、ワーナー・エアハードはセミナー形式のエスト・トレーニング(est)を開始しました。

東洋の修行とセラピーとアメリカの商業主義と結びついたのがエスト(est)です。

ヒューマンポテンシャル ムーブメント(人間性回復運動)は、無限の可能性を秘めていることを説きましたが、これが商業主義になると「望んだ結果は、必ず手に入る」のスローガンとなってセールスマンの教育プログラムに使われました。

エスト(est)は都市の中心地で、いっきょに二百名以上集める商業主義的なセミナーで成功し、熱狂的な信奉者を生んでいきました。エスト(est)は高額で経済的利潤を追求するビジネスでした。

ワーナー・エアハードはエスト(est)を金のためにやっているのではないといいましたが、自身はオートレースにのめり込んでお金をつぎ込んだり、クルーザーを所有したりしていました。

けれども、それはアメリカ人の金持ちが普通にやっていることでした。

彼は「ニューエイジのグル」と呼ばれましたが、そのスーツ姿はビジネスマンでした。彼の自我(エゴ)と自己(セルフ)は同じことでした。

日本では1985年のバブルの間最中のころから始まりましたが、なるべくマスコミに目をつけられないように宣伝をせずに、個人から個人への姿勢に徹したために目立たなかったようです。セミナーの参加費は15万円でした。

あるセミナーでエスト(est)のトレーナーは、開始早々こんなことをいっています。

「あんたたちは、全員くそったれだ。(You asshole!)あんたたちは機械だ。あんたたちの人生は働いていない。あんたたちはくそったれだ。なぜなら、あんたたちはそうふるまっているからだ。」

「お前たちはみんな機械にしかすぎないんだ。人生で一度だって、自ら決断を下したことはないんだ」

250ドルも支払った参加者は罵倒され驚きました。

反発する人もでました。

そうしてトレーナーは、感情のプロセスが起きればプロセスワークを始めたのです。

トレーナーは、過去の似た状況の再現を今この瞬間に、彼が行っている事実に直面させます。

感覚を観察する「ボディ・プロセス」やサークルを作り1人ずつ相手の目を見るアイコンタクトや、参加者と次々とハグしたり、鏡の中の自分の目を見て挨拶をさせたり、会場に仰向けに横たわり、大声を出すような事も行なっていました。

トレーナー「今、何がありますか」

参加者「悲しみがあります」

トレーナー「受け取りました。それから何がありますか」

参加者「両親への怒りがあります」

トレーナー「受け取りました。ほかに何かありますか」

参加者「何もありません」

トレーナー「サンキュー、その悲しみと怒りと一緒にいてください。プレゼンスするものにプレゼンスするとき、それは消えてしまいます」

参加者「いわれていることがわかりません」

トレーナー「OK、わからなくていいです。ところで、あなたは病気だから成功できないのですか」

参加者「そう思って生きてきました」

トレーナー「それはあなたが作ったストーリーですか。それとも現実ですか」

参加者「私が作ったストーリーです」

トレーナー「では、そのことに責任がとれますか」

参加者「責任をとるとはどういうことですか」

トレーナー「責任をとりますと、ただ言うことです」

参加者「責任がとれます」

トレーナー「受け取りました。自分には持病がある。そして自分は健康である、と宣言することはできるでしょう。この会話は、自分には持病がある。だから自分は成功できない、という会話と比べて、あなたを力づけますか」

参加者「力づけます」

トレーナー「あなたは成功してもいいですか」

参加者「成功してもいいです」

トレーナー「何かほかにいいたいことはありますか。聞きたいことはありますか」

参加者「ありません」

トレーナーはよく「get it」や「it is it is. it isn't it isn't. 」といいました。

「わかっても何にもならない。説明は常に必ず事後である。説明が何かを起こすことはできない。」

トレーナーは、ホワイトボードに2つのサークルを描き、左に「プレゼンス(存在)」、右に「リプレゼンス(解釈)」と書いたりしました。

ユングは心理療法を、「告白」「解明」「教育」「変容」の4つに分類して、自我から自己への移行、心の全体性の成就を「変容(トランスフォーメーション)」といっています。

エスト(est)で「トランスフォーメーション」は毛虫から蝶になる重要な言葉になっています。

エスト(est)の基本は、トレーナーと参加者との1対1の相互作用にあり、参加者が体験の知的解釈をやめゲシュタルトが転換した時、世界認識が根本的に転換しました。

マインドは、過去の記憶によって外部からの刺激に自動的に反応してしまう機械であり、あなたのマインドは、空虚で意味のない存在であるという認識は、マインドを自分と思っていた参加者に大きな衝撃をもたらしました。

そして「あなたはすべてを創造する完全な存在だからこそ、意味の無い空っぽの世界で人生を自由に創作できる可能性に満ちているのだ」とトレーナーはむすびました。

けれども「あなたはパーフェクトよ」「そのままで大丈夫」「それでいいのだ」は、気づきが起きないと、単なる自我の自己納得になってしまい現状維持に終わってしまいます。

セミナーで強烈な高揚感が起きても長続きせず、数週間、数ヶ月後には落ち込みに変わる事があります。

たしかに「わたしはあるがままで完全だ」と繰り返し思い込むことで、苦しみが和らぐことはあります。

しかし、それは痛み止めのようなもので、薬が切れれば再び心が痛みだします。自我の次元にとどまる限り、苦悩は繰り返されるのです。

世界は空虚で意味がない。人生は空っぽで意味がないとと繰り返し説かれると、参加者は自我の枠組みが揺さぶられます。自分を縛っていた過去を手放すために、物語(ストーリー)を話すようトレーナーに勧められると、参加者は心の奥にしまっておいた、過去の恐ろしい人生の秘密を泣きながら暴露しはじめました。

高揚した参加者は、大勢のアシスタントに囲まれて、次の高額なコースに勧誘されるのでした。

商業的セラピーの特徴は、高額なセミナー料、何人かの参加者を連れてこなくてはいけないエンロールメントと呼ばれる方式、マニアルに基づいた行動主義的な刺激―反応パターンの構造をもっている、ことなどがあげられます。

大集団の意識トレーニング・プログラムには、特別に傷つきやすい傾向のある人々が参加する危険性が指摘されています。

自己変容が起きるには、存在の力が要求されます。

自覚がないままにセミナーに参加して、自我の枠組みがゆさぶられると、大抵の人は何が起きているのか自覚できないので、混乱し怯えて退行してしまいます。

セミナーの参加者には、心理的防衛機が強く働いたまま帰宅して、虚無感と不安に襲われてしまう人もいます。

そのために、商業的セラピーは参加者からマスコミに騒がれるような深刻な訴訟が起こされ、しばしば社会問題に発展しています。

エスト(est)は分厚いマニュアルに則って、意識や感覚の訓練を強引に引き出す、ライフスプリングやライフダイナミックスのような、体験実習的な商業セミナーと異なるといっていました。

ライフダイナミックスは、マニアルに沿っていたのでトレナーは、マニュアルを持って独立したので、自己啓発セミナーが、雨後の筍のごとく世界中に発生したのです。

エスト(est)はトレーナーになるには7年かかり、問題がある人のためのグループセラピーではなく、健康で成功している人のものであると、弁明していました。

エスト(est)は商業的セラピーでしたが禅の公案や瞑想法、センサリー・アウエアネス、ゲシュタルト療法と同様の手法が使われていたので、自我が脱落してセルフをかいま見る体験が起きた人はいたのです。

エスト(est)に、優れたトレーナーがいたので相当強い衝撃を受けた人は大勢いたようです。

エスト(est)を終了した人物に、ジェリー・ルービンやオノ・ヨーコやジョン・デンバーなどがいます。

トランスパーソナル心理学を、日本に紹介した吉福さんによると、あるがままの自分をみとめることを悟りだとするエスト(est)は、トランスパーソナル心理学会でひどく批判された事があるといっていました。

吉福さんは、『もちろん、「あるがままの自分を受け入れる」というのはすばらしいことです。大半の人は、あるがままの自分を受け入れられないがために苦しんでいるわけですから、それを受け入れられるだけでもすばらしい体験だと思う。それは第一歩であって、終着点ではなく。そこから本格的な道がはじまるわけです』とも結んでいます。

1991年に、ワーナー・エアハードは脱税容疑と近親者からのセクシャル・ハラスメントで訴えられ会社を辞めざるを得なくなってエスト(est)は解散しました。

その後、ワーナー・エアハードの脱税容疑は晴れて告訴は取り下げられています。

エスト(est)はその後、著作権を譲り受けた「ランドマーク・フォーラム」に代わりました。

ランドマークはエアハードの姉妹ジョウン・ローゼンベルグが取締役でワーナー・エアハードの弟ハリー・ローゼンベルグが最高責任者でした。

日本に進出したランドマークは最初「ブレークスルー・テクノロジー・コース」と名乗り次にランコード株式会社そしてランドマーク・エデュケーションと次々と名称を変更しました。

マインド・ダイナミックスから派生したライフ・スプリングは、ライフ・ダイナミックスと名前を変え日本に進出しました。80年代にアークインターナショナルと名称を変更しました。

ライフ・ダイナミックスのトレーナーだった高橋浩二が独立したライフスペースは1999年に成田ミイラ化遺体事件を起こしました。

業界最大手だったアークインターナショナルは、2000年に解散しました。

アークインターナショナルのトレーナーは次々と独立してBeYou、iBD、サミット、シナジー、オリジン、日本創造教育研究所 、メディオス、ウィキャン などが派生しました。

エスト(est)で働いていたトーマス・レナードとローラ・ウィットワースはエスト(est)のトレーニングモデルを元にコーチングを開発しています。

エスト(est)の影響は驚くほど広範囲に渡り、数多くの商業主義的な自己啓発セミナーが次々と名前を変えては現れ消えていきました。

お金は現代の風俗となっています。

お金の時代の宗教はビジネスの姿をしています。

儲けるという文字は信者と書きます。

生活の全てが経済のシステムに組み込まれています。

お金の価値が頭に入り込んでいるので、金額の数量でものごとを判断しています。

お金は、環境を破壊することも守ることのどちらにも使うことができます。

お金は良くも悪くもなく、どのような使われ方をするかにかかっています。

お金の時代に、仏陀やイエスや老子が現れたならネクタイを締めてスーツを着ていたかもしれません。

中世で一番大きな建物は、教会や仏殿などの宗教施設でした。

17世紀になると、政治の建物が大きくなり、産業革命が起きると、経済活動の建物が一番大きくなりました。

そして、21世紀に入ると、経済の象徴だったツインタワーが911で崩壊しました。

経済の時代は、すでに終わっています。

次の時代に向かって世界は大きく動いています。

文献
ワーナー・エアハードとest/神谷光信
マインド・レイプ/塩谷智美
精神世界マップ/C+Fコミュニケーションズ
眼には眼を/ケン・ウィルバー
カルトの正体/宝島編集部
いまどきの神サマ/宝島編集部
マインドコントロールとは何か/西田公昭
マインドコントロール/岡田尊司
カルト/マーガレット・シンガー
意識のターニングポイント/吉福伸逸
アメリカ現代思想4/吉福伸逸編
洗脳の楽園/米本和広
癒しの時代をひらく/上田紀行
洗脳撃退マニュアル/高橋紳吾

https://www.facebook.com/prayas.shimizu

ネットワークビジネスの体験を幾つか紹介します。

小学校1年生くらいの幼いときに、うちでアムウェイ商品の紹介の会がありました。母の知り合いたちが4〜5名来たかと思います。そこで「手が荒れにくく、環境にも良い食器洗い洗剤」が紹介されました。チェリーの香りがほんのりする、液体洗剤です。それで野菜も洗える、食器の油汚れもしっかり落ちるけど手荒れはしにくい、環境にも良い…と商品のメリットが熱く語られました。そして「これで歯を磨いたって大丈夫」と言われたときにそれを横で聞いていたわたしは即座に歯ブラシを取りに行って「磨いてみるからつけて」と歯ブラシを差し出したのです。セールスマンの女性は青くなって、部屋の空気が凍りつき、母に「あっちに行ってなさい!」と追い払われました。このときわたしは「売るためならでまかせの嘘を言う人がいる」ことを理解しました。

わたしは「お化粧」はしません。せいぜい眉を書き足すくらいです。理由は「必要性を感じていない」からです。ところが、「これなら大丈夫」「お化粧だけど同時にスキンケアができるの」とご親切に勧めてくださる方はたびたび現れました。「ありがとう、でも必要ないの」で済ませてきました。ところが、わたしのボディワークのセミナーを受講してくださった方で「どうしても聞いてもらいたいことがある」と練習会のあとに時間をとって喫茶店でふたりで会うことになったときのことです。わたしは健康相談などもしていていろんな困りごとをいろんなルートで持ち込まれるので、なにか困っていることでもあって、みんなの前では話ができないのだろう…と勝手に解釈というか予想して行ってみたところ、「化粧品のセールス」が始まったのでした。
人体や環境に有害なものは一切使っていない。化粧であると同時にスキンケアができる。会員になると少しやすくなるなど一通り話を聞いて「わたしがこれを買わないとあなたは困りますか?」というわたしの質問に戸惑った様子で返答がありません。「他の人の前では話せない悩みなどありますか?」と訊くと「困っておられるのかと思って…」とおっしゃる。「困っていないし、必要ありません」としか言えませんでした。

今思うと、これらの経験が「必要なものを必要なときに」という買い物をするときの基本姿勢を形作ってくれたように思います。

「必要なものを必要なときに」というのはワクチンでも言えることで、わたしが「反ワクチン」ではないことは聞きに来てくださった方はわかると思います。科学的に本当に有効なのかどうかの検証は時間をかけて行われるべきだと思いますが、現状ではある程度の有効性を発揮する状況もあるわけで、たとえば難民キャンプのような公衆衛生上の問題があるところで小児のワクチンがあれば防げる事態もあるでしょう。幼い子供をつれて、医療アクセスの良くないジャングルのようなところへ出かけるときには、破傷風や狂犬病のワクチンを勧めることがあります。中南米やアフリカで技術指導、教育関連のしごとをなさる人には黄熱だけではなく髄膜炎菌のワクチンを勧めることもあります。こういう「必要性」を判断できる情報の無い中で「定期(だけど義務ではない)」接種という健康被害がおきたときの責任が曖昧なやり方が気に入らないだけです。

【必要なものを必要なときに】

という簡単な約束をみんなが自分にしてしまったのでは、ものは売れません。だから広告があって、「これを使えば◯◯になれる(ないと✕✕と思われますよ)」というような高揚感と脅しがセットになったような雰囲気で欲望を刺激して「買わせる」のです。

どんなに素晴らしい商品であっても、「今それが必要かどうか」「それを購入する金銭的な余裕があるかどうか」を考えれば、身の丈にあった必要を満たすものを購入するほうがQOL全体を見渡すと満足度は上がると思います。「用は足りているけど、それが理想的だと言われたので、家計的に無理を承知で購入しました」というのは、食費や時間(パートの時間を増やすとか)にしわ寄せが行って、しんどい思いをすることになるのです。

どんなに素晴らしいセミナーでも「今それが必要かどうか」「お金と時間の使い道として優先順位はどうなのか」そこを考えるスキを与えず「とにかく良いのだ」「これさえあればハッピーになれるのだ」「今このチャンスを手にしないあなたは愚か者である」というような雰囲気で迫られれば、冷静な判断はしにくくなるというものです。しかも、彼らは本気でそれを「世直し」「救済」「善行」と信じ「善意」があふれる表情と身振り手振りと言葉で迫ってくるのです。その人に「今それが必要かどうか」だとか、その人の経済状況だとか、家庭の状況(ケアすべき老親や幼い子供がいるとか…)などお構いなしに勧めてくる人は「洗脳」されていると言っていいでしょう。

欲求は必要があって生じるものです。満たされれば欲求はおさまります。

欲望は必要かどうかに関係なく刺激されて生じるものです。欲望を刺激するものとの接触が続く限り止むことはありません。

人は欲求も欲望も持ちます。欲求や欲望それ自体には善悪はありません。そもそも明確に分別できるものでもありません。「欲しい」のうち20%の欲求と80%の欲望が同時に存在しているようなことは普通です。「必要かどうか」を自問したときにわかるのはたぶん欲求のほう。欲望は「必要かどうか」に関係なく「どれほど魅力的に感じるか」で湧き上がります。

「魅力的に見せる」のは「本当に魅力的だと信じている」人にとって簡単なことです。疑いなく、善だと信じて、魅力をアピールし、欲望を刺激してくるのです。

悪意など全くありません。
けれど、悪意があろうがなかろうが、暴力です。
相手のことを思って行う「しつけ」と称した体罰が存在するように悪意のない暴力は存在します。

差別だとわかっていて差別する人などめったにいないのと同じで、自覚のない暴力は存在します。

相手の状況(必要性や経済的状況)を顧みることなく、お金と時間を使わせるように働きかけ、実際に使わせることは、相手を尊重しているとは言えません。少なくとも、「魅力をアピールするための時間」は、必要性を無視して時間を使わせる(奪う)という暴力になっている可能性が高いです。

選ぶとき(特に高額なもの)には「選ばない」も選択肢におきながら、「必要性」を自分に問いかけて、優先順位を多角的に決めてたいものです。

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