
「つたえることば」を見つけに行ってきた
1月18日(土)、豊田まで【「ほかの誰ともとりかえがきかない 『わたし』からはじまる憲法のおはなし」】を聴きに行ってきました。仲良しのけーちんのFBタイムラインにたびたび登場する水野スウさん、どんな言葉で、声で、憲法を語られるのか、ずっと気になっていて、ようやくお目もじ叶いました。
しずかな、優しい声で語られる「憲法」は前文や条文にあるような「特別な人にしかわからない言葉」ではなく、子どもが読む絵本に添えられているような、やさしい(優しくて易しい)言葉でした。今回は特別に娘さんのマイさんも一緒に語ってくださり、おふたりが注目している13条がテーマでもあり、タイトルには「わたし」が入っています。
第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
この中で特にわかりにくいのが「公共の福祉に反しない限り」という文言で、少し噛み砕いて言うなら「社会全体の共通の利益や、人権の衝突を調整するための原理」のことです。まだわかりにくいですね。
世の中全体に及ぼす悪影響(経済的に、または排除・差別など暴力に結びつくもの)があるものや、個人レベルでも人権侵害になるようなことは制限しますよ…という意味です。
この原理原則に反しない限り、という注釈つきで「個人の幸福追求権を国が保証します」と書かれているのが憲法第十三条。
個人の幸福追求権をマイさんはこんなふうに表現しました
わたしはほかの誰ともとりかえがきかない
わたしは幸せを追い求めていい
わたしはわたしを大切と思っていい
あなたもあなたを大切と思っていい
その大切さは行ったり来たり
でないと 平和は成り立たない
会の冒頭でこれを聞いて、雷に打たれました。わたしが「人権ってね」という話をするときに聞いたことがある人もいますね。
わたしはわたしを大切にします
あなたはあなたを大切にします
わたしはあなたを大切にします
あなたはわたしを大切にします
そういう関係性のことを「人権」って言うんです。
同じ気持ちで憲法や人権を理解して語る人とついに出会えたという感動。
国家権力が暴走しないように、
独裁によって国民の基本的人権が損なわれないように、
国民どうしが互いに尊重しあう平和な国であるように、
…という「国家のありかたとしての理想」が書かれているのが今の日本国憲法で、たとえそれが敗戦国に戦勝国が「押し付けた」ものであっても、(戦勝国に都合よく書かれたものであるならともかく)民主主義・平和主義の国として必要なことが書かれたものを、しっかり守れてもいないのに「変えたい」と政治家が言うのは順序がおかしいよね。
憲法は国家権力に国民の自由と権利を侵害させないためのもので、これがただあるだけでは実現されにくいので、
12条には「自由と権利は国民の不断の努力で守るもの」と書かれています。
そして
13条には「すべて国民は、個人として尊重される」と。
13条の「存在すること自体が尊い:Be」を実現するために
12条に「国民はぼーっとしてたらあかんで:Doの必要性」が書かれている。
絶妙のセット!
ざっくりとまとめると、そんなことがスウさん、マイさんのやさしいことばでとつとつと語られた会でした。
13条の「ぼーっとしてたらあかんで」というのはわたしの表現なのですが、なにをして「ぼーっと」なのかと言うと、「波風を立てない」「長いものには巻かれろ」「偉い人に任せておけばいい」「目をつけられたら損」「難しいことはわからない」「意識高い系w?」というような態度のことです。
「原発反対」「消費税減税(or廃止)」「痴漢撲滅」「クオータ制の導入を」「高等教育の無償化を」「給食の無償化を」「最低賃金の引き上げを」「沖縄からの米軍基地撤退を」「裏金議員は逮捕せよ」と呼びかける人たちは「ぼーっと」してない人。部分的にDoしているとか、せざるを得ないほど怒りや苦痛を感じているとか、不正や不正義、不公平全般に黙ってられない人とか、いろんなグラデーションの人がいますが、
これを「12条する」という動詞にしてみると、わたしたちの暮らしに「憲法」がどのように関わっているのか、なんとなくわかるのではないでしょうか。
「12条する」という動詞に出会えたのも今回の大きな収穫!
振り返ってみると、わたしがワクチンのお話会をしていたのも、
「ワクチン反対!」ということではなく、
ワクチンにそれなりの社会的、心理的、科学的な役割を認めたうえで、
それでも「有害な側面」があるこをは否定できるものではないから、
「必要なときに必要なものを」が
健康でいてほしいという医療者と
元氣でいたいという利用者の
双方の願いを達成する鍵になるはずなのに、
「どんなときにどれが必要なのか」
を選ぶための情報が行き渡っていないから、それを手渡します。
あとはそれぞれの状況(恐怖感や体質や暮らしの環境など)と照らして
ご自身で選んでちょうだいね(あなたの13条幸福追求権を実践してね)
…というものでした。
これは「知る権利」「表現の自由」を記した憲法第二十一条の実践。
「21条を通じて12条した」ということ。
性教育の話をするときにも「役に立つ情報を手渡したい」
という思いは共通していて
元氣でいたい、幸せでいたい、という
まずは「わたし」に役立つための情報を手渡したいから
大人を対象にした話をしていたのでした。
「ポルノの性情報は科学的ではないよ
「自分の身体を科学的に理解すれば科学的に子どもに伝えられるよ
「ジェンダーは性差がある以上ゼロにはできないけど縛られない生き方ができるよ
「過去にまなんだ価値観はアップデートできるよ
「子どもに相談してほしいなら、相談できる大人でいよう
「人権を理解したら、人権を尊重するお手本になれる(13条)よ
これも「知る権利」「表現の自由」を記した憲法第二十一条の実践。
「21条を通じて12条した」ということ。
そうか、わたしは21条を通じて12条し、誰かが13条を自分に引き寄せられるようにあーだこーだと喋っていたのか…ということがわかったのでした。
例えば、「原発再稼働反対」とか「No Nukes」「No War」などのデモに参加したり、ウェブ上でそのような言説を発すると「過激」だとか「クセ強」だとか言われたり、「怖くないですか?」と聞かれたりすることがあります。そういった眼差しが向けられているのをリアルに見たり、ウェブ上には履いて捨てるほどあります。わたし自身、揶揄・冷笑をされることがあるし、実害のある嫌がらせや暴力を受けたこともあります(子どもの頃に特に)。仲良くしていた人が「同類に見られると困る」と離れたり「わたしは怖くて無理です」と直接言われたこともあります。
「権力に物申す」ことは、専制政治や独裁政治が行われている状況下では「取り締まり」の対象になる「怖いこと」です。保身のために近づかない選択は致し方のないこと。
でも、政治的に、経済的に大きな権限や権力を持つ人はいますが、今の日本は「民主制」です。その民主制と個人の人権は憲法で保障されています。その憲法は「国民は不断の努力で自由と権利を守ってね(12)」と言っています。かつ、日本は国際人権規約に批准していて、国が人権を守ることは国際的に義務付けられてもいます。子どもの権利条約も同様。
「権力に物申す」ことを怖がって、または関心の無いふりをして、憲法違反や人権侵害を見逃し、憲法が書き換えられて、戦争になり、人殺しに加担させられたり、「嫌だ・NO」が言いにくくなる方が、わたしは怖いです。
「過激な人」と思われたくなくて「戦争」という過激な状況が始まることのほうが、わたしは怖いです。
危なっかしい状況になっている今だからこそ、ひとりでも多くの人が関心を持って、ことばにしてほしい。
ことばにすることをわたしたちの「憲法」は応援してくれています(12条)
怖気づいたままでいることよりも、ちょっとした勇気
(バッジをつけるとか)を出すことを
わたしたちの「憲法」は応援してくれています(12条)。
今年の夏は参院選。
自民党の改憲案はなんとしても阻止したいと思っています。
「戦争の対義語は平和」でしょうか。
平和のための戦争が起きるのはなぜでしょう。
スウさんは
「暴力・戦争」の対義語は「対話」とおっしゃいました。
対話、平らに話す(平話)、平和だ、と。
対等な対話がなされることが平和。なるほど。
別な考え方として「戦争⇔日常」というのもあるそうで、
日常の暮らし(文化やいとなみ)を破壊するものが戦争であるのも、
なるほど。
文化やいとなみという「日常の暮らし」の中に
「平らに話す」ことが行われている状況を「平和」というのですね。
「平和」のためには人権侵害されたら「NO」という勇気は必要。
たとえ侵害してくるのが巨大な権力を持つ国や組織であっても。
憲法はそれを応援してくれています。
しばらくお休みしていましたが、
「ワクチンのお話(アップデートします)」
「子どもと話す性の話」やろっかな。
おしごとください。