ボクラハミンナイキテイル
11月6日から8日までの3日間、シャーマニック・ドラムを作りに大山まで行っていました。
こちら⬆️「イトナミダイセン芸術祭」のプログラムのひとつです。
講師の龍太郎さんとは、わたしたちが佐用町に引っ越してきてまもなくの2017年春頃からのつきあいで、ずっと作りたかったのですがようやくその希望が叶いました。これまでたくさん話を聞いてきてもいたのですが、実際に皮を触りながら聴く話は収まるところが違うというか、身体の深いところに響く感じがして、作業とともにとても充実した時間となりました。
秋になってから仕留めた鹿の皮を剥ぎ(その他の部位は主に狼犬たちの餌になります)、そのまま冷凍保存されたものを、ワークの1週間ほど前に解凍して「なめし」の準備にとりかかります。
米ぬかとヨーグルトを混ぜ合わせて水でゆるめたものを床面(肉がついていたほう)に塗り、容器に入れ、ひたひたの水を加えて発酵させます。すると毛を固定していた角質層が発酵によって分解されて毛が抜けやすくなり、残っていた肉・脂・膜(ファシア)が取り除きやすくなるのです。今回のワークでは、ここまで準備されたものをなめしていくところから始まりました。
いわゆる、クラフト素材として販売されている皮革ではなく、死んでからいちども乾いたことがない、すなわち、まだ組織としては生きたものを使うのです。皮革加工というと、その臭いゆえに嫌厭されがちですが、米ぬかとヨーグルトで発酵させたものは、多少の生臭さはあるものの、夏場に魚を捌いているときよりも臭いません。生臭いというより糠くさい。まぁ糠漬けみたいなものですから。
まずは、糠漬けのポリバケツから取り出された、まだ毛がボサボサついた皮を板に広げて毛を取り除く作業にとりかかります。毛の生え際から擦り上げるだけでスルスルと抜ける部分もありますが、少しずつ毟るように抜かなければ取れないところも、どうしても取れないところもありました。最終的にはカミソリで剃ったりなどもしました。
打面の毛が処理できたら、裏側の床面(身が付いてたほう)の膜や脂・肉を取り除きます。このこそげ取る作業を「セン」といいます。木の皮を剥ぐような道具やスクレーパーを使うのですが、弾力性がハンパないので意外と皮に傷がつくことはありません。
こうして鞣し終わった皮を板に広げていよいよカットします。各自選んだフレーム(龍太郎さんがあらかじめ作成してきてくれました。わたしが選んだのはタブノキの幹をくり抜いた円形のもの)を皮の正中線に乗るように置いて、フレームの厚みを余分にとってくり抜きます。残りの皮からは紐を作ります。皮の周囲に穴あけパンチで紐を通す穴を開け、紐を通してフレームにかけ、皮を張ります。
…と言葉にすると単純ですが、この皮を張る作業がいちばん集中力とクリエイティビティを要しました。意匠が反映されるところでもあり、音に影響する作業なのです。
とまぁ、作業内容はざっくりとこんな感じ。
白っぽくふやけた状態の生皮から、徐々に水分が抜けて透明感が出てくると飴色に変わってきます。乾ききって音が響くようになった皮は「ミイラ化」したものだったんですね。生命力を宿した状態で乾燥したもの。
ヒトが日常生活の中でたてる音の多くは、エンジン音だったりモーターの音で、それはどんな田舎に行っても逃れようがありません。きっと野山の動植物たちからしてみたら「ヒトは不快な機械音とともにやって来る調和を乱すもの」という認識なのかもしれません。そこに、鹿の皮、しかもその地域で捕れた鹿の皮がミイラ化した皮がたてる音を響かせてみたい」。里はヒトが暮らすところ、森へお帰り。そんなメッセージを優しく伝えることができたらと思います。それが有効かどうかはともあれ、刈払機の音を響かせたあとに太鼓を鳴らすことでなにかが変わるのなら、自己満足かもしれなくてもやってみたい。
年々農林業に対する「獣害」は酷くなっていて、わたしも畑を荒らされたりしてついつい「やっつけてやりたい」と敵愾心を抱きがちですが、そもそも鹿や猪は「敵」でしょうか?なぜ里に出てきて田畑を荒らすのでしょうか?
奥山と里の境界として、暮らしに必要な資源調達の場としてかつて有効活用されていた「里山」があった頃、獣たちは主に奥山にいて、里山から向こうは危ないところだと認識していたといいます。獣たちの領域と、ヒトの領域が「里山」という緩衝地帯の存在で隔てられていたのです。
ヒトは化石燃料や電気を使うようになり、里山へ燃料を取りに入ることがなくなりました。
ヒトは化学肥料を使うようになり、里山へ堆肥の材料をとりに入ることがなくなりました。
ヒトはスギ・ヒノキをところ構わず植え、間伐もせずに放置し、森は暗くなり下草や灌木が生えなくなりました。酸性土壌になり保水力も低下して土砂災害も増えました。森の獣たちの餌が減りました。
「棲み分け」のために重要な役割を果たしていた「里山」を守るためのことは何もせず、「里山」を失い、獣たちの領域とヒトの領域が隣り合わせになるようなことをしたのは、紛れもなくヒトなのです。
おまけに、鹿や猪が増えすぎないように適宜間引いてくれていた狼を絶滅させたのもヒトでした。
それらを踏まえたうえで、林業の復活や、狩猟、狩猟で獲った獣の肉の活用など、さまざまな試みがなされていますが、その中でも龍太郎さんが「生業」として行っているのが「ウルフパトロール」。
90%以上ホッキョクオオカミの血を引く狼犬のヨイクをアルファとして、チームで獣害から守りたい地域をパトロールするのです。
獣害から守る方法として柵を巡らせたり、猟で数を減らすなどの方法が一般的ですが、柵の管理は多くの労力と資材を必要とします。そして結構簡単に破ります(特に猪)。罠や鉄砲で入ってくる獣を駆除しても、彼らにしてみたらいったん餌場として得た縄張りが「空いた」ら、別の個体が入れ替わりに入ってくるのでいたちごっこになります。
鹿や猪はもはやヒトを天敵とみなさなくなり、ちっとも怖がりませんが、狼犬などの大型犬だとそうはいきません。自分たちにとって危険な領域だという認識が産まれて、彼らの方から自発的に近づかなくなるのです。
「ここは獣たちにとって天敵がいる危険な領域」というメッセージを明確にするために、1週間ほど毎日深夜と早朝に狼犬のチームがパトロールしつつ獣を狩る。これを定期的に繰り返すことで、獣害に悩んでいた果樹園は初年度は収穫見込みの90%、2年目以降は100%の収穫ができるようになりました。これが口コミで広がって、あちこちから声がかかるようになり、芽吹きのシーズンから果樹の収穫が終わるまで大忙しの「生業」となりました。今回のシャーマニックドラム作りは、繁忙期のピークを過ぎた今だからこそ開催できたわけです。まだまだ仲間の少ない小さな事業ですが平和的に「棲み分け」へと導く方法のひとつとしてアリだと思います。
「へー!」「ほー!」と感嘆符が出てくる細かな話はもっともっとたくさんあって、「調和」「共存」「共生」や「持続可能性」「多様性」について考えさせられることばかりでした。ヒトがこれまでいかにこれらについて考えなかったか、というか、ヒトの利便性のみを追求してきたか、今起きている不都合は概ねそれらのしわ寄せとなって、第一次産業を脅かしているのだということがよくわかります。
ワークで作ったドラムはこれから時間をかけてゆっくり乾燥させます。ポータブルの神棚のようなもので、持ち手側はいわば祠の「中」にあたるため、安易に人に披露するものではないそうです。なのでウェブ上に写真を公開することは控えますが、どうしても観たい!という方は訪ねてきてくだされば考慮いたします(笑)。
シャーマニック・ドラムのことだけではなく、狼犬のこと、森のこと、獣たちのこと、生きていること、死生観などなど、多くの人とわかちあいたい話が盛りだくさんなので、龍太郎さんの繁忙期が訪れる前に機会を設けて来てもらいたいと考えています。狩猟免許を取る人は微増しているようですが、龍太郎さんのようなスタイルでやってる人はたぶんいないと思う。意識の片隅に置いておくだけでも何かが変わるはず。乞うご期待。
「たまゆら堂」にてシャーマニック・ドラムを作る会は来年の冬に予定しています。3日間で「あとはゆっくり乾燥させるだけ」の状態にするには…をすでにシミュレートし始めていて、合宿形式でやることになりそうです。3日間、佐用町近辺で捕れた鹿の生皮と向き合っていただきます!こちらも乞うご期待。
今回、大山の麓で毛のついた(ついでにダニの死骸もいっぱい付いてた)鹿革とじっくり向き合ってつくづく感じたのは、ヒトの都合だけで回っている社会に暮らすことのストレスってハンパない…ということ。空間、空間を成す構造物、時間の感覚、音、臭い、手触り、あらゆるものとの関係性(もちろんヒトを含む)…それらがいつのまにかわたしたちの身体のシステム(恒常性)に負荷をかけていて、それをリセットするには、ヒトも地球上に生きる生き物であることを感じさせてくれる環境に身を置くのが一番手っ取り早いと思います。
調和の中に生きようとすれば、体力、気力、スキル、知識、覚悟、感性などなど、色んな要素を駆使する必要があって、家族やコミュニティで補い合う関係性がなければ困難だったり諦めなければならない何かもあるでしょう。街なかの暮らしはこれらのうちどれが欠けても「個」が死なずに済むように自然環境がはらむ危険を排除したものなんだと思います。わたし自身、それによって生きながらえさせてもらった自覚はあって、それはそれで有り難いものだという認識。でも、バランスや調和という視点で環境を見たときに、気候変動や獣害からもわかるように、そろそろヒトにコントロールできる限界は来ているようで、「これから」のことを考え模索しトライ・アンド・エラーをしながら共存への道を探る時期が来ているのです。
健康や元氣、というのはヒトひとりの身体で完結しているのでは決して無いのだから…これはセラピストとしてのつぶやき。
おまけ
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