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サクラノ刻の感想文。幸福と美について

サクラノ刻3日くらいで一気に読了しました。興奮冷めやらぬままに、いろんな人の感想とか見て、自分の中である程度感想がまとまってきたので、書こうと思います。良き作品に出会えた幸福な瞬間を永遠にするために。

注意

  • 素晴らしき日々、サクラノ詩、サクラノ刻、サクラノ刻初回限定盤特典のネタバレを含みます。

  • ストーリーそのものというよりは、私がサクラノ刻から受け取ったものについて語ります。私の思想や他作品への言及も混じっています。

総評

サクラノ刻は最高だと感じた。(not 最高である)
読んでいる最中は、とにかく没入した。読んでいて楽しかったし、思わず唸らされた。読んだ後、一歩引いた視点で見ると、たしかに荒は目立った。物足りなさも感じた。
読んだ内容を反芻すると、思いの外この作品から多くを受け取った気がした。

この人の作品は癖も思想も強いので、万人に勧められるものではないのは当たり前としても、美少女ゲームとしての不備・不足はいくらか指摘できるのではないかと思う。ただ、それを補って余りあるテーマ性と、描こうとしている本筋の面白さがあると思う。

それこそ、人によって感じかたは違うだろうけど、
サクラノ刻の美は細部の不整合を忘れさせるようなものだった。

以下、私がサクラノ刻に見た美について語る。主に幸福について考えたことについて語る。サクラノ刻は幸福以外にも、才能や創作についての思想も示してくれたが、それらを語るのは、また別の機会に。

草薙直哉は芸術家だったのか

何を言っているんだという気もするが、草薙直哉は芸術家だったのだろうか。しかし、サクラノ刻の、特に、心鈴√での草薙直哉は芸術家というよりは教師と言った方が相応しいのではないかと思う。

そもそもの話として、直哉は自ら積極的に作品を作る人間ではない。
それこそ、作品を作るきっかけがなければ、例えば、世界に直哉しかいなければ、彼は絵を描かないんじゃないかと思う。

直哉が作品を作る理由には、いつだって他者がいる。
直哉は自分のために絵を描かないのではないか。
幼少期の作品は母のために、櫻七相図は雫のために、ムーア展に出した作品は圭のために、櫻達の色彩の足跡も、あの頃の思い出を守るために。
このスタンスは、サクラノ刻Ⅴ章で完成させた作品にも言える。
直哉は圭が遺した絵画への回答となる絵画を長らく構想し、作品を作る準備もしていた。にも関わらず、中村に銃を向けられ、ムーア展に作品を出さなくちゃいけなくなる時まで、描かずにいた。

こう書くと、直哉は芸術家というよりは、芸術という力を持ったスーパーヒーローなんじゃないかと思う。

草薙直哉の美

ただ、さきほど直哉は芸術家だろうかと言ったが、サクラノ刻では直哉は、再び芸術家として活動を再開するという結末になっている。

では、やっぱり直哉にとっての天職、幸せは芸術なのだろうか。答えは両方だと思う。人間には複数の側面があるということを抜きにしても、実は、直哉の芸術家らしからぬ創作のスタンスは、直哉の芸術観そのものに直結しているとも言える。

「芸術とは、芸術からではなく芸術から、手をさしのべてくるもの、だからと考えています」

(中略)

「芸術とは、芸術が自らの傍らに寄り添った瞬間────その瞬間、はじめて自らの血が作り上げるものだと思われます」

サクラノ刻 Ⅲ章 恩田放哉との対話の中の草薙直哉の発言

直哉は芸術について、苦悩が必要であるということに同意しながらも、最終的な部分では、芸術の方から、美の方からこちらへやってくると言う。これは自分の世界の中を掘り続けても、直哉の求める芸術は無し得ないということだと思う。いつでも、作品を作れるように日々の鍛錬を欠かさないながらも、頑なに作品を発表しないのも、そういうスタンスの現れかもしれない。

そんな、直哉の目指す先、それが「世界の限界を超える絵画」

「いいえ、私が言う”世界”とは”私”の事でしかありません。
 そして、 <私> はムゲンに開かれた世界です」

サクラノ刻 Ⅲ章 恩田放哉との対話の中の草薙直哉の発言

すば日々をプレイした人なら、分かると思うが、世界=私という図式。思想?みたいなものがある。世界の限界を見ることができるなら、自分の限界と世界の限界は同じではないか。すば日々で、でっかく引用されたエミリー・ディキンソンの詩、サクラノ刻でも、Ⅳ章で、よりラフな形で引用された詩。「人間の頭と神様は同じ重さ」というフレーズ。

直哉の目指すものは、文字通りすば日々的な世界観をぶちやぶって、自分の限界を超えて、到達し得ない他者と通じ合うような、そんな絵画なんじゃないかと思う。だからこそ、自分の身を削るだけのような孤独な営みからは、作品を作らない。だれかのために、あるいは、だれかに向けて作品を作る。

そういう意味では、直哉の芸術に近いのは、御桜稟や夏目圭よりも長山香奈なのかもしれないし、稟や圭が直哉に芸術をやることを求めたのは、自分にはない『弱き神』を求めていたからかもしれない。

夏目圭が「俺はお前に追いついたよ」と言ったのも、直哉の目指す美の片鱗に触れた作品を作り出せたからだろう。

直哉は自らの世界を探究して美を創り出さない。その深い瞳によって、自分を超えた世界の外の輝きをとらえて、永遠に閉じ込める。

きっと、その営みは、ひどく遠くあてのない旅路なのかもしれない。

ところで、ブルアカとの類似点

「約束されない土地。
 無限に開かれた <世界> において、見ることのない限界の土地。
 そこを目指す行為こそが、私の考える『芸術』です」

サクラノ刻 Ⅲ章 恩田放哉との対話の中の草薙直哉の発言

ここでちょっと話を変えるのですが、この直哉の美・芸術への向き合い方、考え方ってすごくどこかで見たことがあるんですよね。特に上の「約束されない土地」という比喩。これって、ブルアカのエデン条約編で出てきた、楽園の話っぽい。

ブルアカのエデン条約編では、キヴォトスの7つの古則の一つとして「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」が登場した。
で、それに対するブルアカのアンサーとしては、存在するか分からないけれど、それを信じて進み続けるしかない。そんな感じだった。

直哉も、あるかどうか分からないし、到達できるかもわからないとしながら、約束の土地を目指し続ける、信じ続けるというスタンス。

サクラノ刻とブルアカの根底を流れる魂部分、結構似ているなーと思う

いろんなやつらや、設定やらが青春を脅かしてくるけれど、俺たちはそんなもの打ち負かして、青春をやるんじゃい。全部青春に変えるんじゃい。
っていうブルアカは、すごく幸福に生きよを体現しているようなしていないような。

閑話休題。

草薙直哉が見つけた幸福

慣れず批評めいたことをしようとして、ごちゃごちゃよくわからないことになったのですが、最後に直哉の幸せについて、ちょっと語ります。

結局、サクラノ刻の最後は、直哉は芸術家兼学校の先生兼夏目藍の夫としてエンディングを迎えた。
これはサクラノ詩のエンディングよりも、ハッピーだし、直哉はなんだかんだ芸術家を続けているし、それでいて、自分の身を削ったり家族を放ったらかしにしたままというわけじゃない。本当にいいエンディングだと思う。

藍先生と結ばれたのも、ベストで、多分、稟や雫や真琴、氷川だと本当の意味で直哉を幸せにできないんじゃないだろうか。
弓張美術部のメンバーが直哉を好きになったのって、結構、天才芸術家でヒーローの草薙直哉に恋していた部分もあると思うし。
だからこそ、みんなして、あれだけ直哉に絵を描かせようとしたんだろうし。

そういう意味で、芸術家でない直哉も含めて愛せる。直哉も弱みを見せられるってなると、藍先生だよなぁ。
(まぁ新弓張美術部の咲崎桜子にも圭の話していたから、ルートとしてはありそうだったよなぁとも)

そんなこんなで、直哉のとなりにはこれからも藍先生がずっといるだろうし、子どもにも慕われていて云々……
だからこそ、芸術家という修羅の道も歩めるし、だからこそ、当たり前のような家庭のある幸せも噛み締められるような。

幸福に生きよ。
サクラノシリーズが掲げる幸福とは、その答えの一つ。
人と人とのつながり。思い出の一瞬。その一瞬にこそ幸福は在る。

さまざまな幸せの形

そんなこんなで直哉の幸せについて感想を述べたが、サクラノ刻は直哉の幸せ以外にも、他の幸せの形も登場していた。最後にそれを紹介して終わろうと思う。

片貝の幸せ:地道な努力によって着実に世界を良くする幸せ

片貝、こいつはサクラノ刻のMVPだろ。本編であんだけ、芸術家バトルを繰り広げ、世界の限界がどうこうと言っていた裏で、しれっとすごいことをやってる。

片貝は芸術家じゃないし、世界的に活躍しているわけでもない。
ついでに恋人もいない。
だけど、片貝は技術者として、地道に地道に活動を続けて、みんなの知らないところで、着実に世の中を良くしている人間だ。

ある意味、芸術家とは真逆の幸せだと思う。

夏目藍の幸せ:帰るべき場所を守る幸せ

藍先生は芸術家みたいに、何かを追求することもなく、片貝みたいに着実に世の中を変えるような幸せでもない。

藍先生の幸せは、ある種、生産性とか創造性はないかもしれないし、ちょっと古臭い、お嫁さん、みたいな幸せかもしれないけど。でも、それも一つの幸せなんだろう。子供を生むって、どんなすごい錬金術師もできないことだし。

川内野優美の幸せ:日々の小さなことを積み上げる幸せ

サクラノ刻もう一人のMVPかもしれない。
言うほど出番はなかったけど、あんなニートみたいな生活で愛する人をただ待つだけの日々に幸せを見いだせてるの、まじですごい。

本人が日々の小さなことに幸せを見いだせるなら、こんな生活だって、こんな人生だってあっていいんだという、そんな例として登場していたんじゃないかな。

幸福に生きよと言うけれど、前向きに意識高く生きよというわけじゃないんだきっと。日々の小さなことを楽しめればそれでいいんだ。

最後に、サクラノ刻とその感想文に感謝

そんなわけで、サクラノ刻の感想でした。我ながら言語化が下手で、面白くもない駄文だったかもしれません。でも、たとえ上手くいかなかったとしても、自分なりの言葉で、自分の力で、感想を書いて閉じ込めておく、というのが大事なんだと思います。だって、私は絶対的な美を追う芸術家ではないのだから、桜の下を歩くただの人、その1人なのだから。

サクラノ刻、まじで良かった。

最後に、この感想を書くにあたって、いろんな感想を楽しく読ませていただきました。すべての感想文に感謝。

サクラノ刻によって幸せについて考え、他の人の感想によって、その内容の言語化を促される。この感想記事はサクラノ刻に対して自分が考えたことを書いただけだが、その中にはきっと、いろんな人の感想が溶け出している。

もし自分の稚拙な感想文によって、誰かの魂を震わせ、新たな感想文を生み出すきっかけになれたなら、少しは「世界の限界を」超えたことになるだろうか。