自分にとっての日常を知る
目が覚めるときの明るさはいつも同じ。それなのに今日は、40分ほど遅い時刻になっている。実家のある四国まで帰って来たなと実感する。
昨日は山の畑を見に行ったり、野菜を作っている畑まわりの道を調べたりと落ち着かず。頭もぱんぱんに張りつめたままで過ごしてきた。ようやく、身体も東京の街ぐらしから実家ある地方のペースに戻ってきたなと実感がわいてきた。
さっそく、今日は畑周りの作業道を修繕し、切り落とした枝たちを道のそばへと集めていく。近所からもらった藁も運んでおきたいし、畑の虫もつまみ出しておきたい。そんな今が日常のように思われ、不思議な気分になる。
日数でいうならば、街暮らしの方がずっと多い。街で暮らしている間、そこがわたしの日常と言っていい。それなのに、今、実家で土を触り畑を見ているわたしも日常だ。
そのくせ、現実ではなく夢の中いるような曖昧な心地もする。わたし、そのものの輪郭が溶けて、別のものになってしまった感覚もする。
街のわたしも、土を触っているわたしも。どちらもわたしが過ごしている日常なのに、その日常が夢の中のようで、わたし自身がどこにあるのかわからなくなる。思っているより、人のなかにある日常はあいまいで、数多く存在するものらしい。
この最近、「日常」や「ふつう」について考えることが多い。じぶんにとっての「日常」や「ふつう」を知ることで、自分の形が見えてくる。見えてきた自分の形を大切に、自分そのままに生きていきたい。