陽の光に向けて
真っ白に花が浮かぶ、真っ暗な山道を。ひとり、歩く。
空の向こうに、ぽこっと見えるまん丸な月。その光を吸いこんだように、白く光る花。
風がふっと通り過ぎたら、小さな光たちがふわふわと目の前をこぼれて、落ちる。
夜の山を歩くのは怖い。けれど、この桜の花が咲いている時だけは好き。
怖いけれど、好き。
そんな春の夜。
耳の奥で、じいじいと音が鳴る。静かすぎる山の中で、山神さんが人の世界をみつめているときに聞こえてくるという。あの、圧迫されるような、首の後ろの毛が逆立つような、不思議な音。
ほんとうに、耳に聴こえているのか。このとてつもなく深い暗がりのなかに見える恐れを、そう聞き取るのか。
じいじいと音は鳴る。
確かに、鳴っている。
その音と首の後ろの寒気と、目の前にときたまこぼれてくる小さな光と。
怖いものと、美しいものとが混じりあう、春の夜の山の中を。
ひとり、じんわりと歩く。
何かとてつもなく大きなものへの恐れと、その中に入り込めない人のかなしさと。それでも美しい花や月と、人もあわせて包み込んでくれる山の匂い。
たくさんの感覚と思いが、人の身体に押し寄せて。
しんみりと、山を下りた。
*
身震いしながら怖くて美しい景色を見ていたはずなのに、街の中、陽の光の中で見る花は、ただ美しく。ぐんと夏の気配をのせて伸びる緑の命に、胸をつかまれる。
今年も、桜の季節が終わって、夏をはじめる。
さまよっていた時間は、もう終わりだ。
ときどき、春のはじまりの怖さや悲しさを思い出して、身震いすることもあるけれど。まっすぐな陽の光をみつめて、人の世界の中を進み始める。