2021/3/20-21(日)人に勇気と希望を与えようだなんて思わなくていい
金曜のnoteと土曜のnoteとが前後してしまったためややこしいことになっておりますが、こちらは金曜日のnoteの続きになります。
しょうもない自分語りをして一息ついてます。そもそも自分語りというジャンルはおっと無限ループ阻止。
でもね世の中のことのほとんどがはっきり言って「自分語り」じゃないですか。表現全般自体がそう。演劇界や音楽界、出版業界もそうでしょうね。いや下手するとスポーツに観光なんかも広義には「自分語り」のジャンルに含まれてしまうかもしれません。おいしいものを食べてもらいたいなんてのも捉えようによっては「自分語り」かも。
他の人にとってそれがお金を払ってでも必要なものとなった時はじめて「商売」として成り立つだけであって、それ以外のものは、というより「商売」として成立しようがしまいが元来はどれもこれもみな「自分語り」なんじゃないかと思ったのです。
今回「不要不急」という言葉が各業界に動揺を引き起こしたように思うのですが、今回不要不急扱いされた業界って本質的に自分語りなものばかりなのではなかろうかと。
もちろん自分語りの中にはたくさんの誰かの心に刺さるものがあり、自分語りを続けることがたくさんの誰かの生きがいになることもあるから侮れません。
だからといって自分語りそれ自体にはお役立ちの要素はありません。特殊な高みに上り詰めた時、他の人の手によって認定されることがある、というだけのこと。
よく様々な業界の人が「人々に勇気と希望を与えたい」と口にするのですが、いやいやそれ、なんか違いますよと。誰かの役に立っているという理由付けをしなければ自分語りし続ける正当性が持てないほど揺らいでいるんですよね。みんなに与える側どころかこれまで通り自分語りを続けてもいいんだよとみんなから許しを与えてもらいたい状態なのよねと意地悪言いたくなるのをぐっとこらえます。
好きなことを堂々と胸張って続けてりゃいいだけなのにね。
勇気と希望のためにやってますという自己欺瞞の正当化が定型句としてまかり通る風潮は気持ち悪いなあと思います。