「自虐風」自慢
結論から言うと博愛の精神が足らんかったのである。
自虐風自慢ってなんだよそれ、という方はgoogle先生よろしくその辺の記事をいくつかみつくろって読んでいただくと良いのですが、ありていに言うと、自虐に見せかけた自慢である。
読んで字のごとく。
だいたいこういう文字面をトピックスにあげつらう時、それがいつごろから使われはじめたものなのかを追跡する。Win98がではじめてインターネットが世に広まった1998年から10年ほどに期間を絞って、検索、と。
何故か期間縛りを乗り越えて2017年の知恵袋が一番上に出てきて来ることは置いておいて。2004年からちらほらと。いやはやとはいえ、ネットで焦点が当たらずともそういう自虐風所作が、いにしえの頃からそこかしこに見受けられたことは容易に想像がつく。言葉としてそれが型どられて広く伝播したのがその頃だと。
きっと多くの人が日常生活でそれを目の当たりにして、一つと言わず、二つ三つの家言を持ち合わせてたりするんではなかろうか。
読者さんとの目線合わせは大切である。
いくつか事例を見てみよう。
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■事例1 学歴編
「どうせ私なんて、MARCHに4点足りず入り損ねた日東駒専卒、低学歴の成りの果てですよ」
自虐風;MARCHに入れなかった低学歴。
自慢;日東駒専には入れた。実際はMARCHレベルである。
ポイント;日東駒専が平均よりは上であること。
類語;中央卒「うちらの大学なんて9割がた早稲田の滑り止めで入ってきた人だよね」
■事例2 元カレ/元カノ編
・2-1
「いっつもダメンズにばっかりひっかかっちゃうんだよねー」
自虐風;ダメンズにばっかりひっかかる。
自慢;相手がダメンズでも私は尽くすタイプ。
ポイント;「いっつも」はすなわち割と男切らすことはないよ感。
・2-2
「20代の頃はキャバ嬢としか付き合ったことないかも」
自虐風;キャバ嬢としか付き合ったことない
自慢;キャバ嬢を落とせるくらいいけてる俺。金持ってる俺。
ポイント;善かれ悪しかれ、キャバ嬢と付き合える人は相対的に少ない。
■事例3 容姿編
・3-1
「身長180cmないのがコンプレックスなんすよね」
自虐風;身長が高くない。
自慢;背の高さに満足していない俺。そこそこ長身である俺かっこいい。
ポイント;178cmは平均身長より高いである。
・3-2
「えー、A子ちゃんアイプチめっちゃうまーい。あたし不器用だから使ったことないよー」
自虐風;アイプチをつかったことがない。不器用である。
自慢;わたしはアイプチを使わずともかわいい。
ポイント;アイプチなんぞ使わんでよいならそれに越したことがない。
こういうことの事例をあげつらいはじめると、自分の性格の悪さを自認して嫌悪感に陥ること請け合いである。是非やってみて欲しい。それくらい世の中には自虐風自慢があふれている。いやほんと、書きだすといくらでもあふれてくるし、自虐風自慢の事例集を万葉集ばりに編纂できるんではないかと思うくらい紀貫之もびっくりである。あと、事例2・3を男女別としたポリコレ対策あたりは評価されたい。
そして、自虐風自慢の特徴には以下の3つほどがあげられる。
■1 自身が引いた自虐ラインより下の人に対する言外のマウンティング
これはもう言わずもがな。シンプルな自慢であれば、単に自身のすごさを誇示するにとどまるけれど、そこに自虐のエッセンスが加わることで、マウンティングの様相が漂う。自虐すなわち、ダメである。そこそこ良い自分を自虐(風)することで、それより下はさらにダメであるとの烙印を押す。自虐風自慢は明示的なマウンティングのようにわかりやすい角をたてることはない。アレンジを加えた行儀の悪いマウンティングは、本人とても気持ちいいのである。
■2 それって自慢でしょ?という問いに対する逃げ道の確保
発信者はわざわざ自虐を呈しているのである。それをあろうことか自慢でしょ?なんて言おうものなら、傷口に塩である。新大久保からキムチがすべて消え去るくらいありえない。「日東駒専だけどMARCHに行けるレベルだってことを自慢してるんでしょ?」なんて言おうものなら「いやいや日東駒専で自慢とかありえないっしょ」と、のれんみたいなものをまくられる。あるいは「Hカップなのがコンプレックスなのよね…」に対しまして「え、それって単に自分が巨乳であることを自慢してるんじゃ…」なんてことをおくびにでも出そうものなら、烈火のごとくその巨乳の不便さをまくしたてられ、おっぱいばっかり見ている男は脳に血液の足りてないクズである、と評された経験をお持ちの方は多々いらっしゃるのではなかろうか。下腹部に持てる血液の過半を充血させた男子は大抵馬鹿である。やむを得ない。すなわち、自虐の対象を自慢だなんて言わせないし言わないよ、もう恋なんてぜったい。
■3 もはや本人に自慢の自覚がない場合がある
「わたしなんてどうせ貧乳ですよ」と「わたしなんてどうせ巨乳ですよ」は同等の自虐だろうか。あるいは「俺なんてどうせ童貞だよ」と「俺なんてしがないヤリチンですよ」は同程か(言いたかった)。
時に、これらを全くの同等であると言い張る人がいる。要は自身に全く自慢の意識がなく、ましてそれを受け取った他者にとって自慢と映ることなど知る由もなく。
それは、ざんねんながら、平均的な世の中の声を知らない世間知らずか、それを受け取った世の気持ちに対する想像力の欠如である。
諸事情あって、自身にとって巨乳がマイナスポイントであろうとも、それを聞く人にとってはプラスポイントであるケースはままあって、こんなものは、世間の声を聞かなくともほんの少し想像力を込めたなら容易にイメージできるだろうし、コンビニに陳列された青年誌のグラビアに数コンマ秒目を止めればそれを自覚できるに違いない。
自虐がそもそもどのような効果をもってして用いられるかは賛否分かれるところだけれど、それを「謙遜」の延長で用いているとして、だ。すなわち「わたしなんてどうせ巨乳ですよ」は謙遜的自虐として他者に与える効果は極めて薄い。いや、もはやゼロである。そのたわわな胸元から、言外にある自慢の要素があからさまにあふれて月曜日をむかえてしまっているのである。
せっかく提示しておいて回収しないのもあれなので、同程度に件に触れておくとヤリチンもしかりである。そこからは自意識の肥大化によってガマンできない何かが先端からほとばしっているのである。
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で、わたくし、自虐風自慢を見ると逃げ道を確保しながらの不用意なマウンティングにズルさを感じて「はいはい、でたでた自虐風自慢ね」と少しばかり意地悪な気持ちになってしまうのですよ。嫌なヤツだなぁなんてね、思ってしまうんです。いや、正確には思ってしまっていたのです。
今日からはそれをやめようと。
平和を愛する幾分ひねくれた自身の価値観の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存のため決意したのです。意地悪な気持ちをやめようと。
長々と駄文を書き連ねましたけどもね、今日は実際、この一文「自虐風自慢を意地悪な気持ちで見ることをやめようと思う」それが書きたかった。ゴールデンウィークも終わりをむかえるこの金曜日にね、そう思い立ったことを書きたかった。
きっかけはとても些細なもので、これも一つ芸風なのだと思えてきた、ということにあります。
これを見て。
2022年5月31日までの公開らしいので、いつぞや見れなくなってしまっていたらすみません。もし切れてたらここから検索してみてください「吉住 芸能人の不倫」
普段温厚な女子が、芸能人の不倫には気がふれるくらいブチ切れるというネタです。
笑いを説明するほどナンセンスなことはありませんが、敢えて言いますと、これはあれです、本当にクソほどどうでもいいことに過剰に反応する世間の描写と、案外温厚な人ほどそうだったりするとおもろいわよねという、風刺とギャップ、緊張と緩和による笑いであります。
自虐風自慢に意地悪な気持ちになった自分と、この吉住さんの演技が重なったんですよね。
で、滑稽な自分を悔い改めて、やめることを決めました。
自虐風自慢だって、黙示か明示か定かじゃありませんが、文章、ひいては生き様を面白くするためのレトリックに過ぎないじゃありませんか。やる方も見る方も一つ、それは芸風でしょうがと。そう思えるようになりまして。
相変わらず私のお墓の前では泣かないで欲しいですが、自虐風自慢くらいならやってもらって構いません。もう意地悪な気持ちにはならないんで。ただし、そこに私はいません。嘘です、います。
ちなみに言わずもがな、当記事は「わたし、そういうことまで理解できるタイプの人ですから」ということを韻に示した自虐風自慢記事であります。
だからどうか、博愛をもってして抱きしめてくださいね。