ビジュアル系的な「歌詞」の弊害
とてつもない偏見からはじまる、身勝手な言いがかりであることは先に断りを入れておきたい。
書き手自身。
はじめてかっこいいと思った曲がB'zの「Blowin'」で、はじめて買ったCDがサザンオールスターズの「エロティカセブン」である。
その後、思春期にCDTVで流れたLUNA SEAは「ROSIER」のPVに心つかまれて。
書き手の世代が知れるのは不本意ながらやむを得ない。大義のための犠牲である。
MALICE MIZER、SHAZNA、FANATIC CRISIS、La'cryma Christiに続いて、Eins:Vierやら、media youth、Sleep My Dear、ROUAGE、Laputa、PENICILLIN等面々の、当時ヴィジュアル系というジャンルを確立し始めた彼らの曲を好き好んで聞き漁っていた。彼らの前身としてシーンを牽引したX、BUCK-TICK、ZIGGY、BY-SEXUALなんかも遡ってみたりして。
各種ファンやら当人やらなんやらかんやらからヴィジュアル系ではないと声高の、敢えて文を区切って書きたいL'Arc-en-Cielの曲なんかは特に好んで聴いていた。コピーバンドを作ってBlurry Eyesは大げさでもなんでもなく1000回は歌ったと思う。
Bloowin'からはじまってエロティカセブンにせよなんですが、その後のヴィジュアル系の面々の曲においても。もちろんバンド単位となると曲はたくさんありましょうから、十把一絡にするのはよろしくありませんが、およそわたしが思春期に通ってきたその多くの歌詞は、とても比喩めいていたと言いますか。
心情を伝えるための描写より、楽曲に乗る語呂と、世界観によってチョイスされた語彙に重きを置かれている場合が多いと言いましょうか。
これを偏見だと言われると、まあ、それはその通りですし、感受性が乏しいだけではなんて指摘は否定できません。
当然ながら、それぞれの楽曲に対するリスペクトはあるんです。青春を共に過ごした訳ですから。ただ、ここで挙げたような曲達の多くは、歌詞をストレートに受け取って心理描写を想起させるような類のものばかりではなかったですよってことです。
音楽って色々ありまして。心理描写と共感を目的とした曲、韻とリズムを重視する曲、はたまた世界観の構築の役割をなす曲と。サンプルとしてはまあまあにそういうことです。もっともっと色々あるでしょうけれど、とにかく曲にも歌詞にも色々あんぜってことです。どれが良いとかではなく役割の話ですね。
例えばパッと思いつくのがLaputaのEveです。
「プラチナの雨あられ」ってなんやねんって感じてたんですね。プラチナの雨あられを奏でるって言葉に某かの共感を得られる人なんてきっとごくごく少数であるはずなんです。少なくともこれを聞いた若かりし頃は、ここに何かを汲み取って然るべき心理があるとは想像できず。
単にこの表現は曲の語感と、バンドの空気感のために選ばれた言葉であると。そう受け取っていました。
あくまで一例なんですけど、こういうのが多かったんですよね。
要は読み込んでそこにある感情を洞察して描写の意味を推し量ろうとする類の歌詞じゃなかったというか。
こんなんほぼ何言ってるかわからないですし、曲の世界観を成立させるために言葉が選ばれているに違いない訳です。コンクリートの透き間で鏡に映る自分が笑うって何ですか。
若かりし頃は特に、歌謡曲の歌詞になんて大した意味はなくて、比喩比喩比喩で、それっぽくいい感じの言葉が選ばれてるもんだと妄信してたんですよね。
刷り込み現象みたいなもんですよ。
それがある程度大人になるまで続いたのです。
歌詞への軽視ですね。
歌詞の意味を知ろうとしない。歌詞のうらっかわに意味なんてないと思うという弊害が長らく続いていた訳です。なんならいまだにその癖が抜けていない時がある。
で、今日です。
西野カナのちょっと前の歌の歌詞なんですけども。
会いたくて震える人なんておらんやろ。
はいはい出た出た比喩ね、比喩。
って思うてたんですけど。
これ会いたくて震えている訳じゃなくて、普通に振られて会えなくて、悲しくて泣いてて震えてるってことなんですね。
これぐらい簡単な描写さえも読み飛ばしてしまうくらい、歌詞に意味なんてないと成長してしまった自分は、プラチナの雨あられに降られたいと思ってます。コンクリートの透き間で。あと、ちょっとだけ震えてます。
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