「ご自由にどうぞ」は返礼ループの一部
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いします。
みなさん年明けはいかがお過ごしでしょうか。
わが家はカレンダー無視の勤め人なもので、実家にも帰らずひたすら公園との往復の日々です。
さて、年明け一発目の投稿は、実家が営む飲食店での思い出ばなしです。
結論、返礼のループに入ると幸せだよってこと。
1月恒例の無料みかん
わたしの実家はちいさな飲食店を営んでおります。
そこで毎年1月になると、無料のみかんを各テーブルに置いてるんです。「ご自由にどうぞ」って。食べ終わったお客さんには「ほら、持って帰ってよ!」って袋まで渡して。お客さんだけじゃなくて、パートさんにも。
毎年末になると、大量のみかん箱を買いに行きました。
父親が「今年は高けぇな!」と毎年言っていたことも鮮明に覚えていますw
こどもながらに、不思議でなりませんでした。
なぜ、わざわざ高いお金を払って買ったみかんを
無料で配っちゃうんだろう?
商品としてお金をもらうべきじゃないのか?
お金貰わないなら、こんな大量に買わずに
少しだけ配るべきじゃないのか?
親に聞いても
「いいんだよ。そういうもんなの。」
としか教えてもらえませんでした。
無料サービスを行う理由
20年以上の時を経て、あのみかんサービスの理由に近づけそうです。
そうか、あのみかんは商売の本質だったのか…。とハッとさせられました。
一方で、お客さんに見返りを求めているイヤラシさを感じませんか…?
ただ、ひいき目に見ても、当時の両親からはそんな下心は感じられなかった。ううん、両親に下心があったなんて認めたくないってのがむすめの本心なんでしょう。
だとしたら、再びこの問いが戻ってきます。
「なぜ彼らはみかんの無料サービスをするのか?」
それは返礼のループ
両親が毎年みかんの無料サービスをする理由。
きっとね、
こんなマインドセットだと思うのです。
もとい、そう思いたいのです。
まず先にお客さんからプレゼント(来店)があった。それは、店主側にとっては「金額以上のものを受け取ってしまった」という感覚だった。だから、返礼としてみかんを無料サービスした。それを受け取ったお客さんもまた「金額以上のものを受け取ってしまった」という感覚になった。だから、返礼としてまた来店した。それは…(以下省略)
・・・返礼、つまり健全な負債感のエンドレスループ。
両親を美化したいエゴを差し引いても、
これは不偏性をもって言える話じゃないでしょうか。
我が家がゴミ拾いをする理由
我が家は、誰に頼まれたわけでもなく地域のゴミ拾いや打ち水をしています。
この理由も、「返礼」でした。
きっかけは、顔馴染みの近所の人が公道の雑草を抜いているところをたまたま見たこと。
「ああ、今までわたしが使ってた歩道がきれいだったのは、こういう人がいたからなんだ」
気付いてしまったからには、自分もできることをやりたい。わたしたちも公共の主体にならなければならない、と突き動かされた結果でした。
——
みかんは閉じた世界のループで、
ゴミ拾いはもうちょっと開いた世界でのループ。
世界の違いはあれど、受け取ってしまったという健全な負債感から返礼せずにはいられなくなることは共通。その返礼を受けて、また別の誰かが健全な負債感を感じ、返礼をする。
これ以上に幸せなループって、あるんでしょうか。
…どうか今年も、返礼が溢れる社会になりますように。
おしまい
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