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お母さんは子どもがすべて?

 先日、第一子が誕生した。長丁場の出産だったが、無事に生まれてほっとしている。小さな体なのに、抱き上げるとずっしりとした重みとぬくもりを感じて、こんなに大きな命が自分のおなかの中に入っていたということが、今でも不思議だ。
 妊娠中は、「子育ては大変だけど楽しいよ」と言ってくれる人が多かった。すれ違った人に、「宝物が入っているね」と言われることもあり、うれしかった。
 一方で、子育て中の母親がいかに苦労するのかを、励ましのためではなく、「わたしが子どものためにあれだけ苦しんだのだから、あなたも同じように苦しめばいい」という意味で伝えてくる人も多かった。
 「それ、父親になる人にも同じように言うんですか」という言葉が何度も喉元まで出かかった。自分を犠牲にしないと「母親」になれないのだろうか。母親だけが頑張らないといけないのだろうか。そうやって犠牲の連鎖を望むほど苦しかったのだろうかと思うと胸が痛む。
 もやもやとした感情のまま、5月に発行された文芸誌「徳島文學」第2号(徳島文学協会)にこんな短歌を発表した。

 「お母さんは子どもがすべて」何回も説かれてうなずく角度おぼえる

 これは納得してうなずいているという意味ではなく、何度も同じことを言われてうんざりして、うなずく角度まで決めて聞き流しているという意味だ。
 そんな中、励ましてもらった歌の一つにミュージシャン大森靖子の「GIRL‘S GIRL」がある。
 「可愛いまま子育てして何が悪い」「私のかわいいと こどものかわいい それぞれ尊くて何が悪い」「全てを犠牲にする美徳なんて今すぐ終われ」―。歌詞の主張する「可愛い」はわたしの背中を押してくれた。この「可愛い」は、仕事をしながら、趣味を楽しみながら、自分を大切にしながら、子育てして何が悪い、にも通じていく。
 母親は、犠牲を払って母親になるのではない。子どもに対してできることは何でもしてあげたいけれど、犠牲を愛情として美化したくない。母性なんて安易に言いたくない。母親として一人で追い詰められるつもりもない。母親以外の愛情だって、子どもには必要だ。大変なことはたくさんあるだろうけど、頼れるものを頼って、現実的に解決していきたい。わたしは、ちゃんと笑っていたい。

「徳島新聞」2019年6月16日朝刊に掲載

 余談ですが、このエッセイは出産のための入院中から内容を考えていて、退院当日の夜に書き上げたものです。今読み返すと、肩に力が入っていて、産後のテンションの高さを感じます。「笑っていたい」と言ったものの、実際はホルモンバランスや生活の変化についていけなくて不安定になることも多く、何をしても泣き止んでくれない子どもを前にして涙が出てくることもあります。何をどう頼ればいいのか分からずに、孤立感を感じることもあります。でも、子どものために自分が犠牲になっているとは思えません。子どもは大事だけど、お互いに、すべてじゃない。それぞれ他のひとにもつながっている存在だと思えています。もちろん不自由を感じることはありますが、慣れていくことや支援サービスなどを受けることでなんとかなるだろうと思っています。この文章もまた、後々読み返すと、真面目か、と笑っちゃうんだろうな。

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