人工林の科学/調査紀行編2(熊野川に沿って、熊野古道館〜滝尻崩壊地へ2013.5.25~26)
熊野川沿いの崩壊地
新宮の熊野速玉大社に行ってみる。ここも紀伊半島豪雨のとき水をかぶったそうだ。世界遺産の碑。境内に珍しいナギの大樹がある。
熊野川は岸辺に水害のときの跡が喫水線のように鮮やかだ 河口近くの橋を渡って対岸を遡ってみる(熊野川が県境になっているのでこの県道740号は三重県の紀宝町になる)。
速玉大社の神域である「御舟島」は、大水害のとき水をかぶって樹木が折れてしまったが、現在は青々と回復中。ツツジが開花しているのが遠目に確認できた。
このまま三重県側を進んで次の橋で和歌山側に渡ろうと思ったら、浅里の集落の先が未だ崩落の工事が進んでおらず不通になっていた。しかたなく新宮まで引き返し、和歌山側の国道168号で本宮方面に向かう。
熊野川流域の被害も凄いと聞いていたが、いやはや、2年近く経ってもそのままのところが多い(もっとも下に道や人家がないなら自然緑化に任せたほうがいいと思うが……)。
一見、広葉樹林の斜面でも、よく見ると崩壊の始まりは人工林で、途中の広葉樹が踏ん張っていた様がよく解るところが多い。中に、私が講演で指摘した通り(人工林の科学/森林講義編4参照)古い切り株から崩壊が始まった斜面にも出会った(下写真)。
数人で命綱を付けて崩壊の林縁に登り、吹き付け工事の準備をしている現場を見た。土建屋さんにとってこの台風被害は大きな収入源で、数年は仕事に困らないありがたいものなのだろう。
熊野古道と道の駅
何度も熊野を訪れながら、話題の「熊野古道」を見たことも歩いたこともないのでちょっと寄ってみることにした。中辺路の人気スポットである「古道歩きの里ちかつゆ」というエリアに観光バスが止まっている。土産物屋やレストラン、古道歩きのインフォメーションセンターなどがあり、土曜日ということもあって、人だかりしていた。
熊野古道を紹介する観光ポスターがたくさん貼ってある。そこには、「蘇りの道 熊野古道でパワーをもらおう!」「和歌山熊野はパワースポット満載」「紀伊半島大水害 負けるな! 和歌山」などの文字が見える。古道歩きの体験コースが整備されており、DVDで説明を受けたのち、車でスタート地点に送迎してもらえるそうだ(有料/500円)。
車で行ける範囲を熊野古道に沿って移動してみる。森林内だけでなく、民家の点在する車道もまた熊野古道の一部になっているのだ。
ちょうど昼時で、「王子」と呼ばれる神社の境内——見た目は田舎のどこにでもありそうな小さな境内である——に弁当を食べる観光客がごった返している(中高年のトレッカーが圧倒的に多い)。それがなにか異様な光景に見えた。
同じエリアにガラス建築の「熊野古道なかへち美術館」が建っている。この高温多湿な熊野で、この建築内部の夏はどのように過酷だろうかと思った(当時は「熊野に相応しくない」と反対運動も起きたという)。
中辺路の「道の駅」にも立ち寄ってみた。狭い館内は土産物を買う人でいっぱいだった。ここは国道に熊野古道が接近しており、駐車場に車を止めて林内に入り、プチ散策気分を味わうことができる。そこはやや明るいスギ林だった。
滝尻王子、熊野古道館、神社
滝尻の崩壊地はだいぶ工事が進んでいた。削岩機などのバックホウなど重機の音が響く。
すぐ上流に滝尻王子と無料の休憩施設「熊野古道館」がある。ここは滝尻の崩壊でダムができ、建物も床上浸水した。今はきれいに修復され、観光案内・ビデオ語り部・歴史展示・グッズ販売などのコーナーが設置されている。
滝尻王子は九十九王子(くじゅうくおうじ*30)の中でも格式の高い五体王子の一つ。世界遺産の石碑があり、立派なトイレができている。「ミニ・枯れ山水」まで付いてるトイレは、100円のチップ(協力金/任意)制になっていた。石碑をバックに写真を撮り、休憩舎にくつろぎ、境内を闊歩する外国人トレッカーの姿があった。海外からやってきた彼らは、この史跡のすぐ目の前の大崩壊と土木工事をどう受け止めているのだろうか(那智で聞いた話では、熊野の山々が植林木だらけなのを看破して呆れる外国人もいるという)。
崩壊地の上部が見える集落まで上がり、林内へ辿り着くためのルートを模索する。その後、田辺市内まで下りて町の様子を見、闘鶏(とうけい)神社に参拝。田辺は平安時代の怪僧「武蔵坊弁慶」誕生の地として有力視されており、駅前にはブロンズの弁慶像が立ち、伝承由来の遺品・史跡などが多くある。闘鶏神社は源平合戦の運命を分けたともいわれる「鶏合神事」に由来する。
夜は中辺路にあるTさん宅にお世話になる。「いちいがしの会」の皆さんが集まり、地元食材のもてなしを受けた。
滝尻崩壊地を調査する(5/26)
今日はT さんたちに安川渓谷や日置川源流部の崩壊地を案内してもらう予定なので、早朝に私たちだけで滝尻崩壊地の調査に行く。
ここは熊野古道の重要地における深層崩壊として数々の紙面を賑わせ、田辺市の報告書の表紙にもなった崩壊地である(人工林の科学/森林講義編3参照)。
計測道具は4mの釣り竿、それに直径巻き尺。そして樹高を測るために30mの巻き尺を用意した。
さて現場だが、工事現場の下から登頂するのは危険をともない困難と判断し、上の集落から道を探してみるとあっさりと現地に到着した。というのも、集落が沢から水を引いている管理道があったのだ。
さらに、驚いたことに、この沢から崩壊現場まで切り捨て間伐(それもけっこう強度な)が為されていた(下・下段写真)。切り口をみるとごく最近の仕事である。だから、崩壊編場までそま道が付けられていたのだった。ただし、さすがに崩壊地のキワは間伐せずに残されていた。
本州の植栽密度に近い過密林!
地すべりセンサーが取り付けられている。
対岸の崩壊キワには木が倒れかかっている。風などで次々と倒れているらしい。私たちもあまり崖に接近するのは危険だ。
古い時代の切り株があり、これでも過去に一度は間伐を入れているようだった。 新しい切り株を撮影する。年輪を数えると樹齢は50年ちょっと。古い時代に間伐した伐り株はすでに白太の部分が腐っているが、明瞭に残存しているので、釣り竿を回せばかなり正確な植林本数を出すことができそうだ。 さらに古い時代の伐り株を見つけた。おそらく人工林化する前の広葉樹の株だと思われる。
それにしても荒涼とした林内である。わずかに乾燥に強いシダや、サカキなどがぽつんとあるだけで、ヒノキ以外の植物はほとんどない。枯死木が少なく、根倒れ木は見当たらない。転がっているのは過去に伐り捨て間伐したヒノキである。
土壌はカラカラに乾いて硬い。表土は流れ石が浮いている。
4mの釣り竿を回して円内本数を調べると半径4m円内本数は13.3本だった(3カ所の平均/下表参照)。明瞭な切り株を入れると半径4m円内に25本くらいある。だから25×200=5,000本/ha以上の植林本数であることが解る(間伐前に誤伐や枯死が何本か出るのでやはり6,000本植えくらいだろう)。それを1回だけ間伐し13.3×200=2,660本/haまで落として現在に至る、と推察する。
本州の平均的な植栽密度は3,000本/haといわれているので、ここの林地は一度も間伐していない本州の平均植栽密度に近い。それでも枯死せず、風雪害にも遭わず、線香林のまま立ち続けているのだ。
ヒノキの形状比は100超
胸高直径は約19㎝(10本計測の平均)なので胸高断面積合計は
0.095×0.095×π×2,660=75.4㎡・・・これは一般的な限界成立本数80㎡に近い。
根倒れした木が見当たらないので、やや奥に移動し、間伐で倒された木を繋いで巻き尺で測ってみた。倒された木の樹高16.3m+切り捨て高=18m。この木の胸高直径17.5㎝なので、形状比は103である。形状比は樹高を胸高直径で割ったもので(下図)、風雪害の危険度と山の健全さの指標だが、70以下が健全、85以上は巻き枯らしが必要な荒廃林である。そのわりに限界成立本数が古座川のスギ林に比べて低いのは、ヒノキは枝を横に張りやすいのと、尾根の痩せ地・乾燥地のため生長が悪いから、と考えられる。
間伐本数は何本必要か?
一般的に、胸高断面積合計50㎡/ha以下で密度管理すれば健全な山を維持できると考えられている。ここ滝尻崩壊地の林分に当てはめてみると、直径が19㎝平均の林では半径4m円内の本数換算で9本以下でなければならない。現況では13.3本あるので4本以上多い。
50㎡/ha以下で密度管理するためには、それ以下に間伐していく必要がある。残された木々は空間を得て枝を伸ばし、また閉塞していくからである。鋸谷式間伐の場合は胸高断面積合計35㎡/haまで落とすが、それを適用するなら4m円内での換算本数は5.5本なので、現況では円内で7〜8本伐らなければならない。つまり本数で半分以上伐る(巻き枯らしを併用)ことになる。
年輪も詰まり過ぎ、15年で直径で2㎝しか太っていない
この林分のヒノキ樹齢は伐り株からおよそ50年生と推測できるが、胸高直径の平均は20㎝に満たない。年輪は緻密だが、今後この緻密さのまま健全に育つとは考えられない。すでに樹高を20m近くまで稼いでいるのに、生き枝があまりにも少なく、林床は表土を流出し、また表土を作るための広葉樹の落ち葉や草本の蓄積が望めないからである。
ヒノキの年輪は見えにくいので、手前の間伐されたスギの切り株の写真を見ていただこう(下写真)。年輪は外側にいくにしたがって細くなり、いちばん外側の1㎝の中になんと15本もの年輪がぎゅうぎゅうに詰まっている。つまり現在までの15年間の間に、直径で2㎝しか太っていないことになる。これが間伐遅れの木の特徴である。
さて、これらの木々に対して、順調に10年に1度の強度間伐を行なえば、平均年輪幅は約4㎜で生長し、胸高直径は50年×0.8㎝=40㎝になっていたはずだ。そのような密度管理だと当然ながら中層に広葉樹が発達する森となり、環境的にもよい山になっていただろう(ただしここは尾根上部なので自然林のまま残しておくべきであった)。
40㎝の直径があれば建築素材としても使い出がある。元玉で横架(おうか)材(梁断面105×300㎜)を、2番玉で柱や板を採ることができる(間伐によって本数は減るが、残した木は材積を稼ぐ、ということだ)。しかし直径20㎝では細い柱しか採れない。曲がりの多いヒノキではなおさらである。
(人工林の科学/調査紀行編3に続く)