独りよがりの演奏
過日講座をした際にピアノを学んでいる人から質問があった。
レッスンで「独りよがりにならないよう」注意があるけれど、それがどういうことか分からないとのことだった。
このフレーズはよく聞く。言われたほうはかなり否定的なことを言われたように深刻に受け止めるだろう。
私はこうした漠然としたものは言ってはならないと思う。
この言い方が演奏を肯定したものではないのは誰でも分かる。その場合、たとえばどこがバランスを欠いているのか等、具体的に指摘すればことが足りるはずだ。それを独りよがりなどの言い方をしてごらんなさい。表現する勇気まで失せてしまいそうでしょう。
私の懸念をはっきり言えば、こうした言い方の陰には教師が自分が感じたことを表現することへの自信のなさが隠されているではないか、ということだ。
演奏に客観的な表情というものがありえない以上、すべて「私」の判断なのである。「私」の責任において目の前の演奏を判断しているにすぎない。どこをどう探しても客観的表現なるものはありようがない。
抽象的すぎるならこう言っておこう。私は生徒の演奏を聴き私の主観に従って指摘をするのである。どこまで行ってもそれだけだ。
独りよがりにならず、それでいて自己を主張する、これは言葉のあやに過ぎない。独りよがりは良いか悪いか。悪い。然り。自己主張はして良いか悪いか。良い。然り。こんな問いかけに変容してしまうから、人から考える力、感じる力を根こそぎ奪ってしまう。答えは決まっているではないか。
そもそも考える力というとご大層に聞こえるが、決して難しい事柄を考えるという意味ではないはずだ。
自己を主張されてなお独りよがりだと感じたとしよう。服装ひとつでも例に取ってみたらよい。
それは少なくとも独りよがりだと感じた人にとり趣味が悪いと思ったということではないか。具体的な事柄を指摘することが出来るはずだ。
演奏でも全く同じなのである。生徒はアドヴァイスを求めてそこにいるのだ。
独りよがりという感想の背後には具体的な何かがある筈なのだ。
それを指摘するだけで足りる。それ無しに独りよがりと言うのは単なる悪口雑言だ。