構成と集中
最近のピアノの演奏で気になることがある。構成力という言葉を発する人ほど緊張の糸が切れてしまっていることだ。
どうも彼らは精神の緊張を求められる箇所を「設定」してその他の部分は力を抜き次なる緊張に備えているように聴こえる。
その上でそれを構成力だと見做しているのではないかと思われる。それではひとつの全体を繋ぎ止めることが出来る道理もない。
ひとつ極端な例を挙げようか。ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」は冒頭の嵐の前奏曲、ジークリンデとジークムントの二重唱、フンディングの登場、ワルキューレの騎行、死の告知、ヴォータンの告別音楽等々、極めて印象的な楽節が次々に現れる。
しかしこれらの楽節だけで4時間を超える長大な曲になっているのではない。
客席で身動きできず息を殺してワーグナーを聴き通すのは一種の「退屈」である。ただしこの「退屈」さは、どう言おうか、蜘蛛の巣に捕えられ身動き出来ない緊張とでも言いたいものだ。家庭で安楽に聴く場合でも同様である。
息が詰まった頃上記の印象的な楽節がやってくる。何という描写力!肺腑を突く表現!
それはむしろ一種の解放とも言える作用をもたらす。各場面は当然全曲中の山場ではあるのだが、そこに至る異様な緊張からの小さなカタルシスだと言う方が適切ですらある。
これはワーグナーの特徴なのであろうか?そうではない。
殆ど全ての曲が同じ特徴を持つと言える。長大な楽曲ほどそうした緊張感によって各部分がつなぎ留められているのである。
敢えて言えばそれこそが所謂クラシック音楽と呼ばれるジャンルの最大の特徴なのだ。誤解を恐れず言えば魅力だと言っても良い。
作曲家はいたずらに長くしているのではない。やむに止まれず長くなっているとでも言おうか。
丁度短編小説をダラダラと長くしたところで長編小説になる訳ではないという事情と似通っている。
かつて日本の小説は長編には不向きだと言われ続けた。確かに見るべき作品は中編以下のものに限られていたように思う。私は小説というジャンルに魅力を感じなくなってしまったのでその後の動向については全く無知なのであるが。
小説の世界でもあらすじだけを集めた本が沢山出回っていると聞く。それについて教養をつけるのは大切だという感想も見たことがある。幾多の知ったかぶりが生まれることだろう。教養とはワッペンではあるまいに。
ここでも事情は同じなのだ。感動らしきものは饒舌だ。それに対して感動というものは、またまた誤解を恐れず言えば、快感からは遠いものだ。