美しい音と褒め言葉
レストランに行ったとしよう。
大変美味しいと感じた場合、またその店に来ようと記憶に留めるだろう。料理に情熱を持つ人ならばその味の秘密はどこにあるのだろうと舌で探ろうとするかもしれない。
いずれにせよふふん、味はとても素晴らしいですね、、と言いつつ素通りすることだけはあるまい。料理人のセンスと努力を想っているわけである。
味は素晴らしいですね、、の後につけ加わるとしたならば、しかし店内が不潔だ、とかウェイトレスが無愛想だったといった不満くらいだろう。
これがピアノ演奏となるとどうだろう。
音が綺麗ですね、と軽いノリでのお愛想になっていないだろうか。それは脚が長いですね、というのと同じような響きを持つ。
いや、脚が長いにはその言葉を発した人の憧れが入っていないだろうか。私にしても気が長いと言われたことはあるが脚が長いとはついぞ言われたことがない。言われることはないと諦めている。
努力して脚が長くなるものならとうの昔にしていただろう。
つまり脚の長さは天から授かった特典なのだ。本人は何の努力もしないまま人々の羨望の眼差しを得る。
しかし音が美しいというと話は別なのである。これは得ようと努めて得る、なにものかなのだ。天から与えられたものではない。ヴァイオリンやクラリネットの音を考えてみても良い。
流石にヴァイオリンでは美しい音は賞賛の対象になってはいる。本来ピアノの音でも事情は同じなのである。
汚い音を出さないことと美しい音を出すことは全く違うことなのだが、そこの差異を聴くことがもはや困難なのだ。汚い音を出さないのは簡単である。フニャフニャ弾くだけで良い。
慣れぬ耳には美しい音も似たようなものに聴こえるのだろう。そこで音は綺麗なんですね、という脚の長さを羨む時のような挨拶になるのだろう。
かくしてピアノ演奏における美しいという言葉は半ば死語と化している。忘れてはならないのはプロコフィエフでもラフマニノフでも美しい音の中で曲想を練ったのだということだ。