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現状を憂い、過去を礼讃する人
何というか、どの分野にもいらっしゃいますね。現状を憂い、過去を礼讃する向き。まあ、わかるのはわかります。未来を礼讃するのは無理がある。未知だし。どうとでも転がるし。だから過去を礼讃して何が悪いかというと、そのことそのものが悪いというわけじゃない。
じゃあ何が引っかかるのかというと、その向きが奉っていらっしゃる過去というのは、ほぼほぼ一面的・一律的なのが気になるのです。
例えば、京都。
いまのゴミゴミした京都は嫌だ。昔の京都がよかった。という人がいるとしましょう。では昔はどうだったですか?となると、出てくるのは結構近い過去の京都であることが多い。嵐電の紫がどうだとか、あの角に百貨店があった頃がどうだとか、軍艦みたいな駅になる前がよかったとか。
市電が走っていた頃とか、京都タワーがなかった頃とかもさることながら、もっと言えば、自動車なんか走ってなかった頃とか御所に天子様がいらっしゃった頃とかも出てきかねない。
で、それはえてして客観的なもののようで、ものすごく主観的で一般的、しかも自分勝手に作り上げた「京都っぽい“偶像”」の共有を強要しているに過ぎない。平たく言えば「独りよがりな価値観の押しつけ」、そう感じるのです。
京都に限らないです。「こういうものでしょ」という一面的なイメージが凝り固まっていて、そこからの時流の変化などそっちのけ、「昔はこうだった、いまはこんなになってしまっていやだ・さびしい・ざんねんだ」と嘆息する。そしてその嘆息の吐き主は、まず当事者じゃない。傍観者ですらないこともある。
ただ、看過してはいけないのが時代の移り変わりによる物理的な変化。法も変われば物も変わる。概念だって変化する。例えば、持久力を求める運動に関わる時の飲水ひとつとってみても、昭和の時代はタブーだったのが令和の現代は適切に摂るのが望ましいとなったし、タバコだって紫煙をくゆらすのが大人のステータスだった時代から、無人のエリアで煙を出しても副流煙が!ニコチンが!匂いが!と全方位からバッシングが飛び交う時代になった。走り始めた汽車に飛び乗るなんて芸当は、ホームドアが必須となった現世においては命知らずの行動になりつつある(というかドアを手で自由に開けられる列車が、一部の例外を除いて実在しない)。
それを度外視してまで「昔はよかった、だから昔のように戻せ」は論外だし、「現代に昔の様子を再現してみました」に対して「ここは昔はこうじゃなかった」「再現度が低い」などとぶつけるのも違うと思う。もちろん、趣味を同じくするメンバーや団体内で批評し合うのは交誼を深めるのに有効だと思うし、そこで異議があったらあったでそれをくみ取ることで、より深い理解を得ることもできるでしょう。ただ、その批評をしたり顔で当事者や企画者に不満たらたらぶつのを垣間見るに、その不満そのものが何とも薄っぺらい向きがいるものだなあとこちらは感じてしまった。それだけなのです。
現状を憂えるのはいいです。自然だと思います。
過去を礼讃するのも、それそのものはいいのです。年齢を重ねれば、それだけ過去のストックは増えますから。
言いたいのは「ラチ外の向きが勝手に膨らませた一面的な固定概念を、さも全体像であるかのようにラチ内の面々に押しつけるのはどうかと思う」ということ。
あ、これは大事な蛇足。
大変だとは思いますが、作り手さん側(当事者側)で過去をお題に何かを持ち出すなら、その過去を知る者が「うむ、よくわかっておるな」と首肯できるだけの考証を重ねた上で、できる範囲の高精度でもって反映させてほしい。受け手(ラチ外の態勢)にはそういう想いもあるということを付け加えておきます。
それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。
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