人の思いやりに触れて―やさしさについて感じたこと―:M.F
ハチドリさんが、人のやさしい行為についてのお話を書いていらっしゃいましたが、私も人の思いやりに触れて同じように感じたことがあります。
以前通勤電車の中で、考え事があり、頭を下に向けてじっと考えていると、前に座っていた若い女性が、「大丈夫ですか?」と心配して、席を譲ってくれようとして立ってくださった。もちろん何でもなかったので、丁重にお断りしたが、その方の思いやりが大層うれしかった。
また、足を骨折したときにも、片方杖をついてバスに乗ったのだが、奥の方から、「こちらに来てお座りなさい」と言って席を立ってくださった方がいらっしゃった。
見ると、私よりもいくつも年を召されたお年寄りの方で、ご自身も足元大変なご様子だった。
本当にそのやさしさにびっくりして、ありがたいと心から思った。
コロナが始まった頃、バス停でバスを待っていると、向こうの方から、一人の白髪の杖をついた仙人のようなおばあ様が、「身体に気いつけなさいよー」と大きな声でおっしゃっている。
誰に話しかけているのだろうと思ったが、どうも私らしい。
近づいていらっしゃると、「コロナは三年は続くからな。腸と肝臓を大事にせないかん。体に気いつけなさいよー」とおっしゃりながら歩いて行かれる。
私はあっけにとられながら、思わずその方の後ろ姿に向かって「おばあ様もどうぞお身体大切に」と声をかけながら、なぜだか涙が出そうになった。
釈迦が悟りを得るために、厳しい苦行をしたが、悟りを得ることが出来ず、衰弱した体で、村娘から乳粥をもらい、その後菩提樹の下で悟りを開いたというお話があるようだが、もちろんそんな大それた話ではないが、何気ない、人の親切やさしさ思いやりが心にしみることがよくある。心の優しい人は世の中にあふれている。
子供が心理テストを持ってきた。
五匹の動物(牛・馬・猿・ライオン・羊)がいて、自分が旅に出る時に、お金が足りなくなったため、一匹ずつ順番に置いて行かなければならないが、どの動物から置いていくかという問題なのだが、私はもちろん自分が必要なさそうな動物から置いていこうと考えた。
馬なら疲れたら乗れるし、ライオンは敵に襲われた時頼りになりそうだし、などと考えて答えを出すと、子供が「お母さん、この問題で、自分が必要としない動物から置いていくのではなく、動物が置いて行かれても一匹でやっていけそうな動物から置いていく、動物の立場に立って置いていくことを考える人たちもいるんだよ」と聞かされ、ちょっと唖然、私はまだまだだなと考えさせられた。
ゲーム一つでも、そのように考えるやさしさ思いやりがある方は、たくさんいらっしゃるのだな。
やさしさって難しい時もある。
押しつけになっている時もあるかもしれないし、相手のためにならないやさしさもあるかもしれない。私も自分の子供をただ甘やかしてしまっているように思う時もある。
偽善と感じる時もあるのではないだろうか。
私は若い時、社会福祉を学んで、人の役に立つことができるような仕事をしたいといろいろ活動していたことがあったが、これって本当に人のために行っているのだろうか、実は自分のために行っているのではないだろうか、偽善ではないのか、そもそも人のためなんておこがましいのではないか、などいろいろ考えていた時期もあった。
相手の役に立つことをして、相手にお礼を言われたとき、ふと見える自己満足の心、そんな自分の心に嫌気がさすときもあった。
でも相手のことを自分のことのように思いやり行えば、必ず心に通じあえるものがあると思う。心に染み入り、一つになってとけこんでいくような、そんなやさしさを、人間は誰でもみんな持っている。
人間はそんな小さなやさしさの積み重ねの中で、本当の愛というものを知るために生きているのではないだろうか・・
その本当の愛というものについて、次にまた自分なりに考えてみたいと思う。