日常の行為の中でする瞑想――超作(ちょうさく)という名の瞑想行6:ポンチ井の頭
最初に掲げた疑問(上記リンク参照)のうち、
「(疑問3)超作というものが本当にあるなら、他の著名な宗教家たちが殆どそのことを言っていないのはなぜ?」
という疑問に対し
「(仮説1)超作はある。しかし、超作における神様の感応は極めて精妙かつ霊妙で、凡人の感覚では到底感知出来ない。」
という仮説を当てはめれば一応の答えにはなっている。
しかし、過去の著名な宗教家達は果たして凡人なのであろうか。
推測すれば、霊的な感知・感応力が人並外れているからこそ一つの宗教的な世界を打ち立てられたのであると私は思う。
だから我々のような凡人よりははるかに高い能力や素養を有しているのは間違いないであろうが、その宗教家たちの能力を以てしても神の感応・働きかけを感知することは出来なかったということなのだろうか。
私の想像ではあるが、おそらくそういうことではなく、その宗教家達はその時代や場所に合わせて道を説いてきたのであって、その人たちは超作を世に出す使命になかった、その時代・環境に超作を受け入れる準備が出来ていなかった、という事なのかも知れない。
神の感応、手助けは十分感知してはいたが、そのことを説く以前に、もっと説くべき重要な課題が与えられていたということなのだろう。
ということで、これ以上の超作考は行き詰った感が無いわけでもない。
と、諦めかけた時、一つの突破口になりそうなある考えが浮かんだ。
人間(の説いた教え)側から超作を考察するアプローチは、本山博以外誰も説いていないのであるからこれ以上は無理である。
しかし、肉体をもった存在ではなく、神様あるいは神霊に近い存在、つまり力を添える、与える側から超作に近いことを説いていたりしていないか、ということ。次回からは、その視点で考察する。