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居心地のよい場所から、目的地を定めず歩きだすことー初フィールドワークー

自分にとって居心地の良い場所から、一歩出てみる。
今回参加した糸島のフィールドワークを通じて、一番印象に残ったのは、メッシュワーク比嘉さんのこの言葉だった。

フィールドワークという場に参加しながら、じつは私は人と話すのがけして得意ではない。どこかしら「何か間違っているのでは」という漠然とした心地悪さをポケットに忍ばせて話している。そんな私がなぜか文化人類学という、人と大いに関わる学問に興味を持った。得意ではないからこそ、人がどう考え生きているのか、理解したいという渇望が生まれたのかもしれない。

だから、「居心地の良い場所から出る」という言葉は、骨身にしみた。
気持ちの変化もふくめて、フィールドワークの当日を振り返ってみよう。

大入漁港から。かつては軍のドッグだったという。

ソフトな人類学 〜裏・糸島フィールドワーク編〜という企画を見つける

本屋アルゼンチン、le Tonneau、合同会社メッシュワークの3社で合同で企画されたもので、糸島でぶっつけ本番のフィールドワークを3時間行い、その結果を発表するというものだった。第一印象はすごく興味があるけど結構ヘビーだな、ということだ。参加を決めるまでにめちゃくちゃ悩んで、申し込みもギリギリになってしまった。最後の一押しは、主催のおひとりである室越さんのスペースで「残りたぶん1席です」というアナウンスだった。これも何かの縁、もう申し込むしかない、と覚悟をきめた。

文化人類学のことを全然しらない、という焦り

そもそも人類学に参加意識が芽生えたのは、椎葉村や五島列島など、地域の食をとりあげる仕事にかかわったことが大きい。「ふるさとの食べごと」というテーマで、地域の食文化を取材して映像に残すということをした。各地の「100年を超える食べごと」をあらかじめ調べ、訪問する場所や人、題材を決め、インタビューしつつ構成を組むというのが私のしごとだった。

茅乃舎1893 〜ふるさとの食べごと〜 宮崎県椎葉村・秋 (youtube.com)

ここでは、いわゆる「ご当地名物」のように目につきやすいものとはまた違う、暮らしに根差しながら丹念に受けつかがれてきた食文化に出会うことができた。と同時に、聞いたり調べたりする時間が限られていたり、何を取り上げ何を取り上げないかの線引きが難しいなどの課題も感じたし、なにより聞き手として自分がまだまだ未熟であると強く思った。

聞き手や発見者としての自分をアップデートするために何ができるかを考え、たどりついたのがフィールドワークを手法とする文化人類学だった。教えを乞いたい先生もいたため、大学の人間環境学科に研究生という形で4月入学することにした。会社員はフルタイムで続けるため、授業はほぼ受けられず、知識やフィールドワークの方法は自分で補わなくてはならない。正直、焦りもあった。だから今回の企画はとてもありがたいものだった。

フィールドワーク先を「大入駅」にする

さて、糸島のフィールドワークの話に戻ろう。

大入のGooglemap。右下が大入駅。

3時間行うフィールドワークについて、糸島のなかでどの地域を選ぶかは自分たちで決めてよいということだった。筑前深江等の大きな駅よりも、大入駅の歩いて回れる範囲が話が聞けそうと思い、ペアの方と考えがあってすんなり決まった。Google Mapを見てざっくりとこの方向に歩こうみたいなことだけ決め、スポットなどは何も決めずに臨んだ。地図で気になるカッパの刀伝説だけは必ずいこうと決めた。

人はめっちゃ歩いていた

いちばん不安だったのが「ひとに出会えるか」ということだ。自分も地方出身なので実感があるのだが、地方では家族で複数台の車をもってどこに行くにも車ということも多いからだ。

実際に歩き始めたら、人はめちゃめちゃ歩いていた。

出会ってお話を聞いた場所

川のほとりで4組ほどが同時に歩いていて、誰に話しかけようか、あわあわしてしまうほどのフィーバータイムすら訪れた(②~④のところ)。のちに会話で判明するのだが、大入駅は駅へのアクセスが良いため車に頼らずに暮らしている人も多いとのことだった。たまたま14時台が人が出歩く時間に当たったようだった(帰りの17時頃はほとんど人が歩いていなかったので)。不安からの喜びに反転した興奮で、やる気スイッチが入ってどんどん話しかけてしまった。最初に話しかけた女性が親切に話をしてくれたことも背中を押してくれた。

出会ってすぐの方に、知人の家まで連れて行ってもらう

やんちゃそうなピアスをした高校生、お孫さんを散歩させているおじいさんなど、いろんな方に話を聞きつつ歩いた。2人組の小学生は、公民館にブランコがあるが、2人しか乗れないと教えてくれた(我々に貴重なブランコを奪われることを心配していたのだ)。神社の階段では、お参りをすませたとおぼしきサングラスにタオルを首掛けという女性にすれちがった。

白山神社。ここを起点に「盆綱引き」という行事も行われている

「このあたりのことを勉強しています」と声をかけたところ、「それなら〇〇ちゃんがいいよね」と固有名詞で知人の方を紹介してくださった。その方なら昔のことにも詳しいという。そのまま、「今いると思うんだけどね~」と話しながら歩いていくので、なんとなく流れで家に連れて行ってもらうことになってしまった。手入れされた庭のある和風の家屋で、女性が玄関から出てきてくださり、庭先で20分ほど色々お話を聞けた。

キラキラと光る、人の記憶のかけらに触れる

神社での歴史やお祭り、また普段の生活や港などかなり広範囲にわたって話を聞いたが、もっとも印象的だったのは子どものときの記憶だった。「昔は裏の砂浜は本当にきれいで。走るとキュッキュッと音が鳴っていた。足裏に、細かい、黒い砂がついてキラキラと光っていた」。

西側の砂浜。年々砂浜が減っていっているという。

その女性が見ていた風景が映像でよみがえってくるように感じた。人の感覚、知覚を共有してもらえるのは貴重な体験だ。おそらく、話を聞く「場所」も重要なのだろう。道端ではここまでの話にはならないかもしれない。庭にあるお稲荷さんについて、「バチかぶる」という言葉が聞けたのもこの場所だった。

話しているとき自分がどういう心境だったのかの記憶がない

このとき女性が話をしてくださりつつ、なんとなく玄関から門に遠ざかる感じで移動していることに気が付いた。さすがに見知らぬ人と、玄関口に近いところでは話しにくかったのかもしれない。人との距離感、時間の切り上げ方は「これでいいのかな」「このぐらいなのかな」と考えることが多かった。フィールドワークが今回だけだと頑張って聞かなければならないが、長期的だとだんだんと聞けることが増えてくるだろう。現地に長く滞在することの意味が少しでも実感できた気がした。そんなことも気になり、脳のCPUがめいっぱいになって、このとき自分がどういう心境だったのかあとであんまり思い出せなかった。

メモの取れてなさに絶望する

ここで5組ほど一気に話を聞けてしまったので、神社の裏でメモを再構築することになった。ここでめちゃめちゃ焦った。自分のメモがあまりにも支離滅裂だったのだ。

動揺して何度も「キュキュ」と書いているのがお分かりいただけるだろうか

もともと単語だけメモを取る感じだったのだが、これはなかなかひどい。またメモからの再現能力の問題もある。聞いたことをフィールドノートとしてまとめるのがむずかしかった。また話をしているときに自分がどういう感情だったのかあまり記憶がない。この点、ペアを組んでいた方がそのときの自分の感情などを率直にまとめられていてすごいなと思った。

自分が仕事などの取材の際にはメモをとりつつ、念のためレコーダーを使っていた。ただいきなり「録音していいですか」はハードルが高いだろう。人類学者の方がはどうしているのだろうか?ある程度信頼関係がつくれたら録音もできるだろうが‥。とりあえず、会話しながらメモをとる能力を上げたいなと思う。

あんたたち怪しい人じゃないよね、と二度聞かれる

公民館にある鍵のかかったお堂を見ていると、男性の方が「見たいなら鍵をあけてあげよう」と言ってくださった。声を掛けられるということは予想していなかったので、びっくりしたが嬉しかった。この方もお堂のなかで20分強、しっかり話を聞かせてもらった。「えらく勉強熱心やね」と言われた。

公民館のすぐ隣にお堂があった

印象的だったのが、「誰でも見せるわけじゃないが怪しい人じゃないと思ったので」ということを言われたこと。おそらく、お堂の周りを見て回っている我々を(我々が気が付かないうちに)遠くから見かけたのだと思う。

室越さんから『透明なテント』の話があったが、まさに”見られいている”ことを実感する体験だった。そして、誰によって鍵を開けるかどうか決めているように、きっと自分がどういう人とみなされるかによって、話してもらえることも変わってくるのだろう。聞いた話は、聞く自分を反映したものなのだ。これも新鮮な気づきだった。

暮らしの細部ほどおもしろい

大入駅では天神まで通勤している人もいて、生活圏という意味ではもう少し広い範囲で暮らしていることが分かった。普段の生活でスーパーがないため移動スーパーがあること、コミュニティバスは予約でくることなど、「今を生きている」「ここならではの」生活の細部を聞くことはおもしろかった。

裏・糸島について

けっこうストレートに「最近、『糸島』として観光的に取り上げられることが多いですがどう思いますか?」「行ったりしますか」といった問いの立て方で聞いてみたが、年配の方も若い人も特に意見がないというか、「ふーんという感じ」「行ったことない」「関係がない」というように意図的にか無意識にか、距離を置いている感じの言葉が多かった。否定はしないが、自分たちの普段の生活、暮らしとは線引きしている印象を持った。

私たちのチームではこれを「クールで自立している」と表現したのだが、外の人に開かれていて、「ひとそれぞれ」というような姿勢も感じた。この距離感というのは移住の人もなじみやすいのかもと思ったが、今回は移住している人には出会えなかったのでその視点での話はえられなかった。

あと気になったのは信仰に関する事象で、「しめ縄」で、ほとんどの玄関に1本線のしめ縄があった。筑前深江のチームの方に話を聞いたがしめ縄はなかったそうだ(他チームの方いたらぜひ教えてください)。

ちなみにこのしめ縄は年中つけていて、10月の収穫のあとにつけかえるのだという。正月のしめ縄とは全然意味が違うとおっしゃっていた。このしめ縄のときも「バチ」という言葉がでてきたので、何かあるとバチが当たる、それを避けるためにお参りする、お祈りをするといった慣習が続いているのではないか思う。

目的地をもたずに歩き始める勇気

フィールドワーク全体を通じて、完成イメージはおろか、サイズすら分からない、立体パズルのかけらを1つずつ拾っているような気持ちを味わった。その拾うピースひとつひとつが予想外であり、中にはつながるものが偶然みつかることもあり、その体験が素直にここちよかった。

私の好きな池澤夏樹さんの本に「沖に向かって泳ぐ」という本があり、この場合の沖とはまさに自分が予想できないものがある場所で、その感覚を大事にしたいと常々おもっているのだが、それが今回のフィールドワークでも体験できたように思う。

さいごに~あたたかき玄関口としての本屋アルゼンチン

人は自分にとっての居心地の良い場所が好きだ。

できればずっと居心地の良い場所にいたいし、時にその居心地の良さを(人の事情にかまわず)拡張したくなるかもしれない。でもそこから敢えて出てみることで、新しいものを見つけてまた帰ってくることができたなら、自分にとっての「居心地の良さ」をもう一度組み立てなおすことができるような気がする。

本屋アルゼンチン
(アルとゼンはメンバーのお子さんの名前だが、「チン」はいない)

そしてコンフォートゾーンから出る玄関口として、本屋アルゼンチンはあまりにも完璧だった。芝生のチクチクとした感覚を味わいながら、青い空の下に座った気持ちよさは忘れられない。背中をポンっと軽快に押されるように、晴れ晴れとした気持ちで目的地のない場所に歩き出すことができた。そして帰ってくるのも楽しみだった。そういう場所を用意してくださったことが本当にありがたい。

主催およびサポートしてくださった皆さん、ペアを組んでくれた方、参加者のみなさん、本当にありがとうございました。

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