なぜアンコール・ワットは密林に埋もれたのか
アンコールワットの遺跡群は我々を魅了してやみません。
ご覧になっている方の中にも観光で訪れた人もいるでしょうし、いつかは行ってみたいとお思いの方もきっと多いでしょう。
19世紀にアンコールワットを西洋に紹介したフランス人も興奮気味にこう語っています。
ではなぜこのような寺院・都城は作られ、そして密林の中に埋もれて忘れ去られてしまったのでしょうか。
1. アンコールの地理と経済
カンボジアは未だに人口の70%が農民でGDPの30%を農業が占める農業国です。昔から農業はカンボジアの基幹産業であり、いかに農業地と農業インフラを充実させるかが国の重要課題であり、アンコール王権の拡大のためにも重要でした。というのも、アンコールの大地は「農業にあまり適さない土地」であったためです。
この地方の土壌の大部分が水はけがよい砂質土。そして砂質土の下には粘土層があり、降った雨は地下に染み込みすぐに流れてしまいます。
雨には比較的に恵まれた土地で、平均降雨量は1300ミリ〜1800ミリ程度で日本と同水準ですが、雨季と乾季がはっきりと分かれています。6月〜11月の雨季は毎日うんざりするほど雨が降りますが、12月〜5月の乾季はほとんどと言っていいほど降らない。
乾季にも農業を続けるには雨季に降った雨を貯蔵する水利インフラが非常に重要だったのです。
歴代のアンコールの王は流水・河川をコントロールする貯水池や水路・運河を建設する土木事業を成功させ、田地に給水させて農業経済を発展させることで王権を維持していました。
さらに水路や運河の建設は、首都と遠隔地を結び政治的統合を維持するためにも重要だったし、各地からの物産を集約してインドや中国との交易にも活用されていました。
つまり、アンコールの壮大な寺院・都城の建設が可能だった理由は、大規模な水利インフラ開発の成功で経済発展に成功し、大量の人口を抱えることができたためでありました。
勿論、寺院の建設はアンコール王権の神性や権威の永続性を目的としていましたが、経済発展と地域開発と表裏の関係でありました。
2. 脆弱なアンコールの王権
現在でもカンボジアの人々は国王が大好きで、前国王のシハヌーク殿下や現国王のシハモニ殿下は国民の絶大な信頼があります。国民の国王好きは伝統的なもので、アンコールの王はシヴァ神などのヒンドゥーの神の化身であり「現人神」と考えられてきました。
そのため歴代の国王は「王の使命」としてこの世に「神の世界」を実現する必要がありました。その手段の一つが「壮麗な寺院や都城の建設」であったわけです。
では歴代の王は同じ血脈を連綿と受け継いでいたかというと全くそうではなく、アンコールの王権は「完全実力主義」で、激しい王位争奪戦を繰り広げ、実力で玉座に座った者が国王となっていました。
歴史書を見ると、スールヤヴァルマンとかジャヤヴァルマンとか同じような名前が続くのでパッと見は王家があるように思えるのですが、実のところその血脈は全然つながっていないようなのです。
前王が死ぬと、王の親族や宮廷の実力者、地方の豪族などで才覚がある者が派閥を糾合してライバルとの内乱を制し、前王妃や皇女と形式的に結婚することで、系譜的に繋がりを正当化し王位を簒奪していました。
反国王の内乱は頻繁に起こり玉座は不安定であったため、歴代の王たちは有力者や民衆の支持を得るために、大規模な水利インフラ工事を行い富をもたらし、王権の偉大さを提示するために前王達よりももっと壮麗な寺院や都城を建設してその威光を見せつける必要があったわけです。
絶対的な権力があったから作られたのではなく、権力が不安定だったから作られたというわけなのですが、とはいえアンコールワットのような大規模な建築物を作るには相当な強権が必要であったことに変わりはありません。
3. アンコール・ワット建設開始
アンコール王朝の初代国王はジャヤヴァルマン2世という人物で、元々はジャワ地域にいましたがカンボジアに帰国し南部の豪族を恭順させながら790年ごろアンコール地方を平定。802年に「クメール諸王の中の王」を宣言し、王位に就きました。
現在のシェムリアップに大規模な王都が建設され始めたのが、第4代国王ヤショヴァルマン1世の時代で、この地にある3つの小山(プノン・ボック、プノン・バケン、プノン・クロム)を須弥山(ヒンドゥーの神話で神々が住む)に見立て、世界を統治する神々の都城の建設を推進しました。
ヤショヴァルマン1世が建設した王都「ヤショダラプラ」は、後にアンコール・トムが建設された時に埋められてしまったためどのようなものか分かっていません。
しかし、現在も存在するプノン・バケン寺院は当時のまま残っていると考えられています。
1080年に王位を簒奪したジャヤヴァルマン6世は北部カンボジア勢力の出身で、1106年ごろから前王ハルシャヴァルマン3世の勢力を追い出しアンコール統治を開始しますが、すぐにダラニンドヴァルマン1世に都を追い落とされ、前前王のハルシャヴァルマンと現王ダラニンドヴァルマンの内乱が勃発します。この戦いで頭角を表したのがダラニンドヴァルマン1世の姪の息子スールヤヴァルマン2世。
彼は内乱に打ち勝ち1113年に国王に即位し、抵抗する地方勢力を平らげて30年ぶりに国内を統一。対外戦争も拡大し東はチャンパ王国、西はチャオプラヤ川上流域にまで攻め込み、さらに大越(ダイヴェト=ベトナム)にも侵攻。大いに国勢を高めたのです。
そして偉大な王はその名誉と威光を完全なものとすべく、アンコール・ワットの建設を開始。
王は30年かけてこの寺院を建設したのですが、いったいどのくらいの人夫が働いていたのか。
フランス極東学院の専門家の試算によると、作業員は16歳〜45歳までの男性で、1日7時間の労働と仮定して、石工3,000人・彫工1,500人・仕上げ工4,000人・運搬人15,000人・作業補助を加えて合計25,000人が1日7時間働いて35年間かかる計算だそうです。
これだけの人が働くための食料生産や住居建設などの関連産業含めると15万~20万の背景人口が必要になるとのことです。
それら労働人口が扶助する女・子ども・老人も当然いたでしょうから、当時のアンコールの人口はその3倍近くはあったでしょうね、きっと。
4. アンコール王朝混乱期
スールヤヴァルマン2世の死後、アンコール王朝は内乱期に入ります。
数人の王が相次いで王位を簒奪し混乱が続き、それに乗じて東のチャンパ王国が1177年にアンコールに侵入。チャンパ国王ジャヤ・インドラヴァルマン4世はアンコールに傀儡王を建てて属国とし、以降20年間チャンパ王国の支配に甘んじました。
その後ジャヤヴァルマン7世がチャンパの支配を脱し、逆にチャンパに攻め入って長い期間の間に襲撃を重ね、再起不能なほど破壊しつくしました。
ジャヤヴァルマン7世は首都アンコールを復興し、新たな都城としてアンコール・トムを建設。
新都城の中心には、須弥山に見立てたバイヨン寺院がそびえます。
ジャヤヴァルマン7世はアンコール王朝で初の仏教徒の王であったため、バイヨン寺院も仏教寺院として建設されています。四面像の「クメールの微笑」は非常に有名です。
ジャヤヴァルマン7世は建築狂と言っていいくらい様々な寺院や僧院を建築し、王国の永遠なる安泰と発展を願ったわけですが、1220年の王の死後からアンコール王朝はまた混乱状態に陥っていきます。
11世紀〜12世紀にかけて、中国南部からタイ民族が南下し、クメールを圧迫し始めました。
タイの一部族ラーオ族がメコン川上流にラオスを形成し、タイ人はチャオプラヤ中流域にスコータイ王国を建国。次第に南方・東方にまで勢力を拡大していきます。
1370年に発生したタイからの攻撃によりアンコールは陥落。クメールの王たちはアンコールを棄てて首都を南部のバサンに移しました。それでも一部の王族はアンコールに居住していたようですが、1431年には完全に放置され廃墟となってしまいました。
1526年に即位した国王アン・チャン1世は、1550年ごろに王国内の森深くに象狩りに出かけ、その途中に100年以上放置されたアンコール旧王都を再発見しました。
この頃には既に寺院や都城は森に飲み込まれていましたが、アンコール・ワットだけは地元の住民の仏教聖地となっていたので、王は寺院の修復を命じました。
1576年に即位したサータ1世は、タイの侵攻に備えて再び旧都に住民を移し、自らもアンコールに居を構えますが、タイのアユタヤ朝が1593年に再度カンボジアに侵入。
首都ロヴェックは陥落し徹底的に破壊されてクメールは回復不可能なほどのダメージを受け、以降アンコールは放置されるがままになってしまったのでした。
5. なぜアンコールは放棄されたのか
アンコールが放棄された理由は、クメールがタイとの戦争に相次いで敗れ国力が落ちたこともありますが、主たる理由は「経済発展の行き詰まり」と考えられています。
11世紀の時点でアンコール平原は田地化され、全ての河川が灌漑化され開発され飽和状態になってしまい、さらなる経済発展のためには周辺部にさらに耕地を拡大する必要がありました。そこでトンレサップ湖西岸が新たに開拓され、水路が張り巡らされ道路や灌漑地が次々と建設されました。
しかし12世紀になると、これまで構築してきた水路や運河の底に少しずつ溜まってきた土砂や泥が、水の流れを止めるようになってしまいました。
メンテナンスが必要な水路や運河はあまりにも多く泥は大量で除去は不可能。かといって新たに水路を掘るスペースもない。
水の循環が止まった耕地は放棄されて荒れるがままになっていきました。
荒れた土地は灼熱の太陽に長い間さらされ水分が蒸発し、水中の酸化鉄の濃度が高まって浮上。土壌が酸化して田地はもはや耕作不能な状態に陥る。
アンコール平原の農業生産高は坂を転がるようにして下落し、農民は土地を捨て逃げ去っていき、労働人口の無くなったアンコールには食料生産はもちろん、大寺院をメンテナンスすることも不可能になっていきました。
こうしてアンコール寺院や都城は密林の中に埋もれ、忘れられていったのでした。
まとめ
ぼくもアンコール遺跡は行ったことがあるのですが、あの密林がかつては大農業地帯であったなど全く信じられません。
あちこちにため池や運河が残っており、かすかにかつての農業地帯の痕跡が残るのみです。
17世紀にアンコール・ワットを訪れた日本人・森本右近太夫は、ここが「祇園精舎」だと信じていたようですが、まさに平家物語で描かれたように「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」といった感があります。
参考文献
「アンコール・ワット - 大伽藍と文明の謎」 講談社 石沢良昭
有料マガジン公開しました!
はてなブログで公開していたブログの傑作選をnoteでマガジンにしました。
1記事あたり10円でお安くなっています。ぜひお求めくださいませ。