朝鮮の抗日闘争の歴史
1910年の韓国併合で大韓帝国は日本に併合され、以降35年間続く「日帝強占期」が始まるわけですが、その間程度の差はあれ朝鮮人の日本への抵抗運動は続いていました。
ただ朝鮮単独では日本の支配を覆すことはできず、太平洋戦争で日本が敗北したことがきっかけで戦勝国から与えられる形で独立することになります。その際、不幸なことに韓国と北朝鮮に分離してしまったこともあり、それぞれが自国の正統性を誇示するたため、日本との戦いにどちらが貢献したか、どちらが主導権を持っていたかを強く主張しなくてはいけませんでした。
「抗日闘争」の抵抗の物語が韓国と北朝鮮それぞれ語られ建国神話となり、政権の正統性を語る上で重要なファクターになっています。フィクションも多いのですが、建国神話なので彼らとしてはそれでいいのです。(その物語の受け入れを日本人に強要してくると話は変わってくるのですが)
さて、今回は朝鮮が日本に併合される1910年までの、初期の抗日運動の展開と抵抗の文脈の変遷を辿っていきたいと思います。
1. 「西洋や倭と結ぶのは亡国の道」
朝鮮の抗日運動の始まりの歴史は開国前から始まっていました。
1868年12月、対馬藩が朝鮮政府に「新政府樹立」を伝える書簡を渡したのですが、その中に「皇」「勅」の文字があることを理由に、朝鮮側は交渉自体を頓挫させてしまいました。その後1875年8月、日本は軍艦雲揚を江華島付近に侵入させて交戦し、永宗島を占領し(江華島事件)、武力を背景に朝鮮政府に開国を迫りました。その結果、1876年2月に朝鮮政府は日本の作成した草案を受け入れ、不平等条約である日朝修好条規にサインするに至りました。
この過程でも国内には「日本と国交を結ぶな」という強固な開国反対運動が存在しました。開国反対を主導したのは地方両班層からなる政治勢力「衛生斥邪派」で、彼らは日本以外のアメリカやフランスが開国を求めた際にも「洋夷撃退」を唱えて反対運動を繰り広げました。
衛生斥邪派=攘夷派の理論はどういったものだったか。
奇正鎮(キ・ジョンジン)によると「洋夷は朝鮮の支配秩序・道徳を破壊する邪悪で貪欲で野蛮な存在。恐ろしい伝染力をもった存在として断固排撃するべきもの」と言われ、一切西欧勢力と関係を保持せず朝鮮の純潔性を守るべきとされました。
また「洋夷」自身はもちろん、洋夷が持ち込む「モノ」も排撃の対象となり、李垣老によると「洋物は奇技淫功之物にして手より生じ限りない物であるが、朝鮮の物資は衣食之源であり地より生じて限りある物である」ため、両者が交易すれば必ず朝鮮は貧しくなるとされました。
衛生斥邪派に言わせれば、日本も「洋夷」の一部であり、朝鮮の亡国と奴隷化を狙う野蛮で侵略的な連中だとされました。衛生斥邪派を主導した保守派の論客・崔益鉉(チェ・イッキョン)によると「古倭はかつては隣国であったが、今倭は寇賊であり『洋賊之前導』である。倭洋一体であるから、倭と旧交を修するなら、洋とも修することになる」と警告しました。
そして日本と国交が開かれ日本人と日本のモノが朝鮮に入ってきてしまったら、「日本は富み、朝鮮は貧しくなり」「邪学が入り民は禽獣と化し」「日本人による略奪、殺人、放火が横行する」とされました。
朱子学の文脈から考えるとそういう発想に至るのはごく自然だし、一部は的を得ている指摘もあります。日本は初めから程度の差はあれ、ある種の侵略的意図を持っていたわけなので、朝鮮側が警戒したのももっともです。
しかし朝鮮は鎖国して内輪で争っている時代ではなくなっていたし、弱肉強食の国際社会の中で生き残る知恵は朱子学にはありませんでした。
以降展開される組織的な衛生斥邪派の抗日運動も、「攘夷」「洋夷文物の締め出し」を行動原理として展開していくことになります。
2. 民衆の抗日闘争
朝鮮政府は開国後、それまで頑なだった攘夷の姿勢から一転し西洋の文物や技術・制度を導入する開化政策へと舵を切っていきます。
しだいに不平等条約や外国との貿易の結果が生活のごく身近なところに現れてくるようになります。
例えば、米が大量に日本に売られることで価格が高騰していくわけです。
すると価格をもっと釣り上げようと問屋による買い占めと売り渋りが起こり、庶民には到底手が出ない物になってしまいました。エリート両班層だけでなく庶民も外国への反発を強め、攘夷運動、特に最もよく見る外国である日本への抵抗を強めていくことになります。
閔氏政権は日本の堀本少尉を招聘して80名の洋式軍隊を設置し、李朝の旧式軍を再編させ再訓練させていました。しかし財政難もあり旧式軍の兵士の待遇は悪く、俸給米の支給はずっと滞っており兵士たちをイラつかせていました。やっと支給されたと思ったら、中には大量の糠が混ざっており、というのも支給担当者が中抜きをして糠を混ぜて残りを着服していました。
1882年6月、怒りが爆発した旧式軍隊兵士が首都漢城で反乱を起こしました。兵たちは「悪の親玉」である閔氏政権打倒と「悪の政策」である開化政策打倒を掲げ、また「悪の根源」である日本の排除を目指し、閔氏政府の要人や新軍教官の堀本少佐を殺害。また政府に迫り開化政策の廃止を迫りました。
結果的に反乱はいちはやく漢城に軍を派遣した清によって鎮圧され、清は朝鮮における宗主国支配を強化するに至りました。この反乱では兵士たちの居住していた地域の住民も多数参加しており、初めての民衆を巻き込んだ武力的抗日運動となりました。
1880年代から日本商人が朝鮮領内で直接穀物の買い集めを開始します。
米価のさらなる高騰が起こると同時に、「シマ」を荒された朝鮮商人は反発を強め、日本商人の退去を求めてデモやストライキを行いました。
また海では、日朝通商章程により日本の漁業船が朝鮮領海内で漁を開始し、これまた朝鮮漁民の利益を脅かすようになりました。
このように、もはや直接的に日本人が生活圏に入ってきて自分たちの利益を脅かす状況になってきたため、農民・商人・漁民にとって抗日闘争は「自分たちの生活を守るための戦い」とみなされるようになっていきます。
そんな中で庶民の支持を集めていたのが「重税反対・汚職反対」を訴える新興宗教・東学で、当初は反閔氏政権を掲げていましたが、当時の潮流に合わせてか「斥倭洋」を訴えてさらに支持者を広げていくことになりました。
1894年2月、全琫準を総大将とする農民軍の蜂起が全羅道で発生し、反乱は瞬く間に全羅道一体に拡大。首府の全州は東学農民軍の攻勢の前に陥落しました。日清両軍が鎮圧に出兵するという情勢に際し、農民軍は全羅道観察使の金鶴鎮と「全州和約」を結んで撤退しました。
全州和約には「汚職官僚の処罰、負債の免除、奴婢の撤廃」などの他に「日本人と密通する者の処罰」や「外国人商人の都城で商売をすることを禁ずる」などが盛り込まれました。
結局この後日清両軍が朝鮮から撤退しなかったため日清戦争が勃発することになるのはご存知の通りですが、この戦争の特徴はこれまで「攘夷」を訴えていた衛生斥邪派が日清両国と共に逆に農民軍を潰す側に回ったことです。
衛生斥邪派は両班エリート層で旧体制の擁護者。彼らにとってみれば、農民軍の主義主張は自分たちの利権や支配体制を破壊する危険思想以外の何物でもなく、彼らは独自に義兵を組織し東学農民軍の抗日運動を潰しにかかったのでした。
このようにエリート層と庶民の抵抗運動は切り離されており、目的は同じ「抗日」でも糾合することがなく、ゆえに国を根本から揺るがす大きなムーブメントになることはなかったのでした。
3. 抗日武力闘争の展開
日清戦争後に清国は後退し、朝鮮半島の権益は日本とロシアによって争われるようになります。
1894年7月、日本の軍事威圧により閔氏政権は倒れ、穏健開化派の金弘集による政権が成立。金弘集政権は科挙の廃止や身分差の撤廃、奴婢の廃止、租税の一本化などを含む近代改革「甲午改革」を進めました。
これにより前近代的な制度に大幅にメスが入り、広範囲に至る近代化施策が実現しました。ところがこれは日本の干渉下で実施されたため、朝鮮の穏健開化派は次第に日本に依存するようになっていきます。
ところが三国干渉によりロシアの影響力が大幅に増加したため、焦った日本公使・三浦梧楼は1895年10月に親露派の大物だった閔妃を殺害する事件を起こしました。
日本が「押しつけた」様々な制度改革で特権を失った両班階級を中心に反発を強めていたタイミングで起こった事件なだけに、地方両班層を中心とした衛生斥邪派の義兵が全国規模で反乱を起こしました。
義兵は親日・開化派の地方官を殺害し、日本商人や漁民を攻撃し、日本が引いた電信を破壊して回りました。
初期義兵運動の指導者の1人柳麟錫(リュウ・リンシャク)は「堂々たる正邦の朝鮮が小日本と化した」と嘆き、王妃の殺害は「惨酷尤甚」と怒り、断髪実施は「我が父母の身を禽獣とする」ことであると主張。日本と開化派が進める改革に断固反対し、両班が支配する旧体制に全面的に復帰することを求めたのでした。
この前期の抗日義兵運動は1896年1月から10月まで続きますが、政府軍の討伐隊に敗れ次第に活動を終えていきます。
その後1905年ごろから再び抗日義兵運動が活発化していきます。
1905年といえば日露戦争が終結した年。
国家総動員でロシアとの一大決戦にあたっていた日本は、影響下にある朝鮮の支配を強め物資の調達、輸送路や電信の確保などを進め、半ば強制的に朝鮮を日本の戦時体制の中に取り込んでいきました。
その中で、食料の徴発や土地の没収、資材の提供など、有無を言わさず日本の戦争のために動員がなされたため、旧両班階級だけでなく庶民も日本への反発を強めていきました。
日露戦争から韓国併合以降の間で、大きく4期にかけて義兵運動が展開されます。
第1期:1905年5月〜1905年10月
第2期:1905年11月〜1907年7月
第3期:1907年8月〜1909年10月
第4期:1909年11月〜1914年
第1期は中部山間地を中心に、衛生斥邪派が率いた義兵が活動します。
第2期は第二次日韓協約に反発した衛生斥邪派がやはり中部山間地や南部全羅道で展開しました。
第3期では、ハーグ密使事件を起こした高宗を日本が強制的に退位させたため、それに反発した市民の街角での抗議行動に兵士が合流し運動が全国規模に拡大していったもの。
第4期は第3期に起こった運動が小康状態を経て再炎したものです。
第1期&2期と第3期&4期はそれぞれ別物と考えたほうがいいかもしれません。
第1期&2期は両班階級の衛生斥邪派が中心となり彼らが組織した義兵が地方で散発的に抵抗を行う形で、そのイデオロギーも「斥倭洋」で「両班が支配する旧体制への回帰」でした。
ところが第3期&4期は市民の反対運動に兵士が加わったもので、日本の侵略行為を一つ一つ挙げて糾弾する内容が多く、日本がいかに朝鮮の国益を損ね市民を不幸にしているかを訴えた上で「朝鮮の国権を犯した協定を破棄させようとするもの」でした。後者のほうが活動としては長く続きますが、日本の軍や警察により次第に活動範囲が狭められていき、1914年にはほぼ鎮圧されました。
まとめ
開国から韓国併合の間の抗日運動の中で長く抵抗を続けたのは、地方両班階級が母体の衛生斥邪派でした。
彼らは李朝旧体制の擁護者で支配階級であり、朱子学の論理でもって自分たちの特権を守るための戦いを繰り広げました。
日本を筆頭にした外国の影響が生活の範囲に及ぶにあたり、商人・農民・漁民も反日感覚を抱くに至り、自分たちの利益や生活を守ろうと抗日運動に参加するようになっていった。また庶民たちは素朴に敬愛の念を抱く王族が、日本により殺害されたり退位させられたことへ同情や反発をし、それも抗日運動へ参加させるきっかけとなっていきました。
ただしこれらの抗日運動が次第にしぼんで鎮圧されていった原因は、「資金力と動員力のある衛生斥邪派と庶民の抗日運動が糾合しなかった」こと、そして庶民の抗日運動は「甲午農民戦争を除けば指揮系統がなく散発的な抵抗に終始した」ことです。
以降しばらくはブルジョワの文化的愛国啓蒙運動が中心となって展開されますが、1919年の三・一独立運動で再度抗日運動に火が付きます。しかし国内での運動は困難になっており、上海や満州、アメリカなど国外での抗日闘争が主力になっていきました。
このように抗日運動は時代によって主張や文脈を時代によって変化させながらも継続して展開され、現在の韓国と北朝鮮の建国に繋がっていくことになります。
参考文献
シリーズ世界史への問い10 国家と革命 岩波書店
第5章 朝鮮の抗日運動 糟屋憲一
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