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日本と中国の近代製糸工業発展史

高齢化と内需の縮小を受け、多くの日本企業が海外に進出しています。
上手くいってる会社も多くありますが、開業時はまあ大変だっただろうと思います。
思うように資材が入手出来ない中で現地に工場を建て、意思疎通もままならぬまま現地の人を教育し、異なるビジネス習慣の中で操業にこぎつける。

なるべく工数をスキップしたいから、会社側はある程度現地住民にビジネスのノウハウがある場所に工場を建てたいところです。
ところが「技術移転」の難しいところは、会社側のやり方と現地のノウハウが全く相容れない場合があることです。もしかしたらノウハウのない地域の住民にゼロから教えていったほうが良い場合もあるかもしれません。

今回は明治時代初期に初めて日本と中国が受け入れた技術移転が、いかなる社会機構のもと発展していったかをまとめていきます。


1. 開国以前の製糸工業

群馬県の富岡製糸工場が2014年に世界遺産になったのは記憶に新しいところです。「近代化産業文化遺産」ということでの登録になっており、中には明治時代に入ってから製糸工業が発達したように勘違いしている人もいるかもしれませんが、そういうわけではありません。
日本と中国は伝統的に土着の製糸工業が発達した地域でありました。

中国は長い歴史を通じて、製糸工業の先進国でした。
中央アジアを通るシルクロードはその名の通り、絹に代表される中国製の高級品をヨーロッパに運ぶ道でした。

中国で製糸工業が大発展するのは16世紀〜17世紀で、足踏みの座繰器が普及してからのことです。この機械の発明で特に揚子江デルタ地帯では、農村製糸・絹織業が著しく発展。国内はおろか、ヨーロッパや日本に「白糸」の名前で大量に輸出されました。
時にオランダやポルトガルなどの先進海上貿易国が東アジアにまで進出し、グローバルなヒト・モノ・カネの流れが動き始めた時代。中国の絹は貿易船に乗って世界各地に売られていきました。

日本でも16世紀半ばから明から導入した絹織物技術によって西陣を中心に発展しましたが、国内で原料糸を生産するノウハウはありませんでした。
そのため生糸を中国から大量に輸入する必要があり、日中間の深刻な貿易の不均衡をもたらすことになりました。

銀の流出を恐れた江戸幕府は白糸の輸入制限枠を設けると同時に、幕府直轄の天領で独自に生糸の生産を開始。各藩も負けじと独自に生糸の生産を行うようになりました。

18世紀末に上州や奥州で歯車やベルトでの繰り枠の回転を増速した座繰器(ざぐりき)が発明され、生産量が増大

幕府による輸入規制と奨励策が功を奏し、中国製と遜色ない質の絹が生産できるほどに成長しました。明治時代に製糸工業の先進地とされる信州は、江戸時代はまったく無名の地でした。

2. どのように西欧技術を取り入れたか

19世紀に中国と日本が開国し、両国の生糸が大量にヨーロッパにもたらされるようになると、ヨーロッパの生糸市場に巨大なインパクトをもたらすことになりました。
当時のフランスの生糸産業の中心地リヨンでは、これまでは生糸価格はヨーロッパ繭の生産だけで決められていたのが、中国と日本の繭の生産量にも大きく左右されることになりました。

リヨンにいる生糸のバイヤーたちは、信州や上海の今年の天候などの情報を入手し、生産量を予測し生糸価格を調整していました。物理的にも距離が離れた地域が、生糸という1つの製品を通じてグローバルに繋がる世界が登場していました。 


富岡製糸工場があった上州(群馬県)では、初めからデカイ工場が建てられたわけではなく、江戸時代から続く伝統の生糸産業を徐々に改良する形で発展しました。これまでは座繰器での生産が一般的でしたが、それでは競合地域に質の面で見劣りがする。そこで、座繰器で作った生糸に再繰工程を加える事で質を一段階上げることに成功しました。

これを可能にしたのは上州が誇る熟練の女工で、名人級の指さばきを持つ者が多くいました。とはいえ熟練度合に個人差があるから、同じ村で作ったものでも質の高いものと低いものが出てきます。そこで村の指導者たちは、女達が座繰器で編んだ生糸をいったん一箇所に集積し、再繰の段階で均等な質の束に分類することを思いつきました。そうすることで高品質の束には高値がついて、一緒くたで売るよりはるかに儲かる。
上州ではこのように、伝統産業と村の集合作業が混合した形で発展していきました。


所変わって、中国・湖州。
湖州でも上州と同じく、伝統の座繰器での作業の後に再繰を行うことで、品質の向上を目指しました。湖州の農民は生糸が出来ると、船か徒歩で鎮(農村地帯の小市場町)に行く。そこで生糸を専門に扱う糸行に糸を売るわけです。糸行はたくさんいるので、農民は何人もの糸行と交渉し、金額の折り合いをつけて交渉が成立したら生糸を渡しカネを受け取る。

糸行たちは買い取った生糸を、系糸行に送ります。系糸行は、その生糸を付近の農民に渡し再繰を委託。再繰が終わると農民は再び系糸行に渡して作業料をもらいます。こうして出来た生糸は上海の問屋に持ち込まれて売りさばかれました。

このように、伝統産業をベースに地場の仲介業者が幾重にも関与して質の向上が図られていました


同じ中国でも上海は湖州とは全く異なっていました。

最も早く開かれた港ということもあり、ヨーロッパの技術が急速に流入した上海では、製糸工場はヨーロッパの技術が丸ごと持ち込まれました。工場もレンガ作りのヨーロッパ式で、石炭を燃料にして蒸気機関を動力にした最新式のもの。日本製を上回る高品質な絹でしたが均質な糸の大量生産は苦手としていました。ところが垂直型で設立されただけあって何年たっても設備に変化が見られず、発展性・拡張性に欠けるやり方でありました。


一方、日本・信州(長野県)でもヨーロッパ式の導入が図られましたが、それは「ガワ」だけで中身は土着の要素が同化した構造でした。具体的に言うと信州では、ヨーロッパのように工場を設置して従業員を集めて行う集合作業が基本でしたが、動力が水車だったり、伝統の座繰の技術が取り入れられたり、土地の職人が見よう見まねで作った機械が置かれていたり、うまくヨーロッパ式と伝統方式が融合した形となっていました。
そのため、高品質な生糸の生産は苦手でしたが、均質な絹の大量生産化に成功しました。
また、伝統式から始まった中身を顧客の要望を受けて徐々に機械化することも可能で、言わば拡張性があり、そこが上海式と大きく違う点でした。

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