独裁者を父に持った子どもたちの末路
独裁者は、常に多くの人の注目を浴びる存在です。
自分が中心にいることが好きな人だからこそできるんでしょうが、賛辞・称賛だけでなく、憎悪・呪詛・怨恨など負のエネルギーも大量に浴びることになります。そして後継と目される独裁者の子が受ける賛辞・賞賛、そして負のエネルギーも親父に負けず劣らず強いものがあったはずです。
独裁者の子供たちはどのような人生を歩んだのでしょうか。
1. ヤーコフ・ジュガシヴァリ(スターリンの息子)
ソ連の独裁者スターリンは女好きで、3人の妻以外に何人も愛人を作りました。しかしまともに面倒を見た人はおらず、多くが自殺に追い込まれたり、暗殺されたり、不審死したりしており、スターリンは家庭的意識のかけらもない男でした。
最初の妻エカテリーナ・スワニーゼとの間に生まれたのが、長男ヤーコフ・ジュガシヴァリです。ヤーコフはカリスマ的な父に愛情と憧れをいだくも、スターリンはことのほかヤーコフに厳しく接したそうです。ヤーコフもあまり出来がいいほうではなく、絶望したヤーコフは拳銃で自殺をしようとしますが見事に失敗。それを聞いたスターリンは「ヤツは拳銃すらまっすぐ撃つこともできない」と吐き捨てたそうです。
その後ヤーコフは大祖国戦争(独ソ戦)に参戦するもドイツ軍の捕虜になってしまい、息子の返還とドイツ兵捕虜の返還を申し出たドイツ軍元帥フリードリヒ・パウルスに対し、「ドイツに寝返った息子などいない」と言って申し出を拒否してしまいました。
これに絶望したのか、ヤーコフは捕虜収容所で突如金網に突進し警備兵に撃たれ殺されたと言われています。
2. ニク・チャウシェスク(チャウシェスクの息子)
ルーマニアの独裁者チャウシェスクは24年間の長きに渡りルーマニアの独裁者に君臨し、強権的な統治と経済失策でルーマニア国民を苦しめ、一方で自らは豪華絢爛な生活を送り一族郎党に重要ポストを占めさせるなどしたため、最後は1989年のルーマニア革命で失脚。革命軍の手で公開処刑されました。
妻エレナもこの時一緒に処刑されるのですが、このエレナとの間に生まれた3人の子のうちの次男がニク・チャウシェスク。ニクは長男が学者になったことで必然的に父の後継者候補となり、秘密警察の幹部の役職でした。
ニクは大変な浪費家で、華麗なる一族らしく、毎晩パーティーやギャンブル三昧。高級車や高級ワインを買いまくり、ただでさえ低迷する国庫から貴重なカネを浪費しまくりました。革命が勃発した際は、愛人と共にクルマで逃げようとしたところを革命軍によって逮捕されました。捕えられたニクは、人々に口々に罵られその模様は国営テレビにて全国民に向けて放映されました。
裁判で政治資金乱用や、デモ隊への発砲で多数の死傷者を出した罪で、20年の懲役刑を宣告されました。1992年に肝硬変のため解放され、4年後にウィーンの病院で死去しました。
3. マルコ・ミロシェヴィッチ(ミロシェヴィッチの息子)
マルコ・ミロシェビッチの父は、セルビア共和国大統領で後にユーゴスラビア連邦(新ユーゴ)大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチ。セルビア時代を含めると13年もの間、秘密警察や情報機関を使って政敵や敵対勢力を容赦なく潰す恐怖政治を続けました。コソボ紛争中のアルバニア系住民虐殺事件で「人道に対する罪」を問われ、国際戦犯法廷で裁かれた人物です。
マルコは父の時代に、香水ブランド、パン製造業、ナイトクラブなど、数多くの企業に携わっていましたが、彼のすべての企業は違法で、化石燃料、薬品、たばこなどの密輸取引を行い莫大な富を上げていたと言われています。加えて、マルコはプレイボーイで知られ、彼は「高価なクルマに美人の女の子を乗せるのを好み、音楽と銃を愛した」そうです。
父ミロシェビッチが2000年の選挙で不正を働き、怒った国民が起こした抗議運動「ブルドーザー革命」にて、父は大統領から失墜。反ミロシェビッチの嵐が全土で吹き荒れる中、マルコは一気に権力を失うことになります。慌ててセルビアから出国し、中国の銀行にある自分の資産を回収しようと偽のパスポートで中国に入国しようとしますが、バレてロシアに追放されました。
現在ロシア政府はマルコとマルコの家族の難民認定を認めていますが、セルビア政府によって国際手配がなされており、EUはEU圏内へのマルコの入国を拒否しています。
4. テオドロ・ンゲマ・オビアン・マンゲ(ンゲマの息子)
アフリカ中部の小国・赤道ギニアは、大統領制の共和国家です。
現在の大統領テオドロ・オビアン・ンゲマは、1979年にクーデターで独立の英雄である叔父フランシスコ・マシアス・ンゲマを処刑して大統領に就任しました。
たびたびクーデターや大統領暗殺未遂事件が発生し政情不安が続き民生移管はならず、赤道ギニア民主党(PDGE)の一党独裁の元、事実上ンゲマによる独裁状態が30年以上続いています。
オビアン・ンゲマは大規模な汚職とマネーロンダリングを行っている疑惑があり、国際的に調査されており、息子のテオドロ・ンゲマ・オビアン・マンゲ(通称テオドリン)も、フランスでの汚職とマネーロンダリング事件に関係して、フランスの裁判官から国際逮捕状を発行され指名手配されています。
別の調査では、テオドリンが農水相の立場を乱用してカネを流してマネーロンダリングした上で自分のポケットに入れ、そのカネでルノワールなどの巨匠の絵画4500万ドル相当を手に入れた疑惑もあります。
テオドリンの贅沢な所有物の中には、フェラーリ50万ドル、マリブの邸宅3000万ドル、グラマン・ガルフストリームジェット3850万ドルなどなど、ボーイズ・ドリームを絵に描いたような品物がズラリと並んでいます。
現在は夢のような暮らしを楽しんでいるテオドリンですが、これが生涯続くほど甘い世の中ではないでしょう。
5. 毛岸青(毛沢東の息子)
中華人民共和国建国の父・毛沢東は4人の妻と結婚しますが、2番目の妻・楊開慧(よう かいけい)との間に、長男・毛岸英(もう がんえい)、次男・ 毛岸青(もう がんせい)を儲けています。
しかし毛沢東はあまり子どもには関心がなく、毛岸青はめったに父親の顔を見ることがなかったそうです。毛岸青は共産党の活動家だった母・楊開慧と過ごしますが、1930年に長沙にて国民革命軍によって捕えられ、銃殺されてしまいます。毛沢東は楊開慧の死は嘆き悲しんだそうですが、子どもたちは引き取ろうとはせず、共産党の組織に匿われていましたが全く自由はなく外に出ることも禁じられたので、1935年に兄弟は家出をしてしまい、上海で乞食のような生活を送っていたそうです。
その後連れ戻され、教育を受けた毛岸青はロシア語をマスターし、モスクワとパリで通訳として活動。1947年に中国に戻りますが、帰国後のことはよく分かっておらず、一説によると1950年あたりで統合失調症を発病したそうです。苦労を共にした毛岸英は、同じ時期の1950年に朝鮮戦争で死亡しています。毛岸青は2007年に83歳で北京で死亡しました。
ちなみに彼の息子・毛新宇は、現在中国人民解放軍の「最年少少将」だそうで、エリート街道を進んでいるそうです。
6. エッダ・ムッソリーニ(ムッソリーニの娘)
エッダ・ムッソリーニはイタリアの独裁者ムッソリーニの娘(写真中央の人物)。
20歳で軍人の息子のガレアッツォ・チャーノと結婚。チャーノはムッソリーニが実権を握った後は、イタリアの外相に就任しています。
1943年、連合軍が南イタリアに侵入したことによって、ファシズム大評議会で糾弾されたムッソリーニは首相を解任されてしまいます。義父の解任投票にチャーノは「賛成」の票を入れました。
解任されたムッソリーニはドイツに保護され、傀儡国家イタリア社会共和国の統領となります。ヒトラーはチャーノの裏切りに怒り、処刑を命じますが、ムッソリーニは「しょうがなかったのだ、許してほしい」と助命懇願をし、チャーノは一命をとりとめたのでした。
しかしチャーノの逮捕は免れられず、娘エッダはチャーノと共に南米に渡ることをヒトラーとムッソリーニに懇願しますが受け入れられません。
そこでエッダはチャーノが極秘につけていた「日記」を武器にしてチャーノを取り返そうと画策しました。
この日記には1937年から42年までのドイツとイタリアの極秘情報が多く記述されたもので、エッダはこの日記の受け渡しと引き換えにチャーノの解放をするようドイツ側に取引を求めました。しかし取引は実施されず、エッダは日記を腹に抱えてスイスに亡命。改めて手紙で父親に「チャーノが解放されなければ日記を全世界に公開する」と脅すも、結局チャーノの死刑は実行されてしまう。
その後エッダはアメリカの新聞シカゴ・デイリー・ニュース紙を通じて日記を公開したのでした。
7. ウダイ・フセイン(フセインの息子)
イラクの元独裁者サダム・フセインの息子ウダイ・フセインは、父親の威光を借りて若いころからやりたい放題の振る舞いをしており、イラク国民にめちゃくちゃ嫌われていました。
ロクに勉強せず毎晩クラブで飲み明かしていたにも関わらず大学を首席で卒業したり、イラン・イラク戦争では味方を誤爆する大失態を犯したにも関わらずメディアで英雄と称えられたり、などなど。高級車を乗り回し、女をとっかえひっかえし、高額な服や食べ物を楽しむ贅沢三昧の日々。
それでもフセインはウダイを自分の後継者として育成しようとしますが、侍従長を殺害してしまったり、売春婦をめぐる争いで親族を銃撃して殺害したりなど傍若無人な振る舞いをして国内外でも悪名が轟くようになり、フセインはとうとう弟のクサイを後継者にすることを考え始めていました。
2003年にイラク戦争が起きると、ウダイは父サダムと別行動をとって弟クサイと共にイラク北部のモスルに逃亡し、ある邸宅に潜伏しました。
情報をキャッチした米軍は、7月22日に特殊部隊を送り銃撃戦の末にウダイとクサイを殺害。ラムズフェルド国防長官は7月24日に、死んだ兄弟の写真を公開しました。
まとめ
父親の威光を傘にして、好き勝手振る舞ったドラ息子が多かったようですが、甘い汁をずっと吸い続けられるほど世間は甘くありません。
反体制勢力や武装勢力が割拠し、議会政治が機能せず、大量の人の命が失われるような混乱状態に陥るくらいであれば独裁体制の方がまだマシ、というのは否定しませんが、人心にも組織的にも不公平と不正義をもたらしやすい独裁体制は、やはり望ましくないのではないかと、ドラ息子たちを見たら思ってしまいます。
参考サイト
"10 Offspring Of Evil Dictators Who Were Seriously Messed Up" LISTVERSE
"赤道ギニア:ユネスコの恥ずべき賞 オビアン賞を巡る法的疑問と人権保護上の懸念" HUMAN RIGHTS WATCH
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