北元の歴史 - 元王朝がモンゴル高原に撤退して以降
1368年、元朝の順帝(トゴン・テムル)は明軍に追われて都の大都(北京)を脱出し、北方に逃れました。
これをもって華北は再び華人の天下となったのですが、北に逃れた元朝はその後も健在で、しばしば華北に攻め入り、明皇帝・正統帝を捕虜にする(土木の変)など、北方から明を脅かし続けました。
1636年、後金国のホンタイジが諸部族から「モンゴリアの支配者」の称号を推挙され、後金が清朝に変更したことで元朝は正式に消滅しました。
そのあいだの280年間の元朝の歴史を見ていきたいと思います。
1. モンゴル高原に撤退した元王朝
北方に逃れたトゴン・テムルは2年後に死亡します。
長男アユルシリダラと次男トクス・テムルは華北の回復を目指し、明と軍事対立を続けますが、アユルシリダラが死亡し、トクス・テムルは明軍の攻撃を受けカラコルムに撤退する際、アリクブケ(フビライの弟)の子孫にあたるイェスデルによって殺害されます。この時、トクス・テムルの長男は殺害され、次男は明に降伏し後に琉球に流されました。
フビライとハーンの座を巡って争ったアリクブケの子孫が、先祖の復讐を果たしてハーンになったのでした。
イェスデルの死亡後、モンゴルの遊牧諸部族は大きく2つの陣営に分裂し対立を続けました。
アリクブケの子孫によるハーンを擁護する「ドルベン・オイラート(四オイラート)部」と、フビライの子孫によるハーンを擁護する「ドチン・モンゴル(四十モンゴル)部」です。
次のカーンはアリクブケの子孫が続き、モンゴル高原西部の有力部族オイラートが覇権を握りますが、後にアスト(オセット)部族のアルクタイという人物が力をつけ、自派のオルク・テムルをハーンに就け、自らは総司令官を意味する「タイシ」に就きました。アスト部は現在のカフカス地方・北オセチア共和国を出自とする遊牧民族で、元の時代に華北に移り住み皇帝の親衛隊となっていました。
アルクタイとオルク・テムルはその後仲違いをし、アルクタイ・タイシがオルク・テムルを殺害。アルクタイ・タイシはティムール朝の保護の下でサマルカンドにいたプンヤシュリーという男をハーンに擁立しました。
この頃、靖難の変で第3代皇帝となった明朝の永楽帝は、国内外に自らの権力を誇示すべく、周辺各国に「臣下の礼」を取るように求める使者を送りました。
オイラート部のマフムードはこれを受け入れますが、プンヤシュリーとアルクタイ・タイシはこれを拒否。これを理由にして1410年、永楽帝はモンゴル遠征を敢行。結局モンゴルを従えることはできなかったのですが、明軍による攻撃は破壊的なダメージをモンゴルにもたらしたのです。
1412年、プンヤシュリーは明軍の攻撃からサマルカンドに逃れようとしたところを、オイラート部のマフムードに捕まって殺害されました。マフムードの子トゴンがオイラート部の実権を握りると、モンゴルへの圧迫を強め、1434年にアルクタイ・タイシを殺害。
この勢いのまま、トゴンはモンゴル東部までを一気に制圧。モンゴルはトゴンにより統一されました。
トゴンはタイシに就き、ボルジギン家のトクトブハをハーンに擁立しました。
ここにおいて、オイラート部によるモンゴル支配が確立。
トゴンの子のエセンはオイラート部による支配をさらに深化させ、西方の商人と手を結び、対明貿易の強化で経済基盤の強化を図りました。
しかし、1448年に派遣した使節の数があまりに多く、定められた数よりかけ離れていたため、明側の反発を招き、これが翌年に土木の変に発展したのでした。
エセンはチンギス家との間に婚姻関係を結び、ボルジギン家のタイスンをハーンに擁立し、自らはタイシに就きますが、1452年にタイスン・ハーンを追放し自らがハーンとなってしまいました。
2. ムスリム勢力の拡大とダヤン・ハーンの登場
エセンによるハーン位の強奪事件は内外の反発を招き、エセンは後に側近のアラク・チンサンという男に殺害されてしまいました。
これを機にオイラート部の覇権は急速に後退。諸部族の覇権争いが始まり、在位時期の短いハーンが相次いで擁立された挙句、1466年に「ハーン不在」となってしまいます。
ここにおいてモンゴル高原の実権を握ったのは、ウイグル出身のムスリム勢力。モンゴル西部を統制していたオイラート部が縮小し、その穴を埋めたのがウイグル勢力だったのです。
ベケリスンという男が西からやってきて明の国境地帯を荒らし、その強力な軍事力でタイスン・ハーンの弟マンドゥグリ・タイジをハーンに擁立し、自らはタイシとなりました。ベケリスンの死後にタイシとなったのはイスマイルという男で、彼もムスリムでした。
1480年にマンドゥグリ・ハーンが死に、イスマイルはフビライ家の血を引く7歳のバトゥ・モンケをハーンに擁立しました。彼こそ北元朝の中興の祖と呼ばれるダヤン・ハーンです。
ダヤン・ハーンはムスリム勢力の「操り人形」として擁立されたわけですが、彼は幼いながら頭がキレまた権力欲もある男だったらしく、またムスリム勢力が跋扈する事態を快く思わないモンゴル諸部族の助力も得て、3年後にイスマイルを中央から追い出すことに成功しました。
追い落とされたムスリム勢力はその後、内モンゴル周辺で略奪や襲撃を繰り返し返り咲きを狙いますが、ダヤン・ハーンは第二子のウルス・ボロトに命じイスラム勢力を追い出し、モンゴル東部・甘粛・青海地方までを勢力に治めました。
ダヤン・ハーンは諸部族の軍を上手く統制し、華北への略奪を上手くやり、明との通商関係を容易に結んだことで諸部族の信頼を得ました。
しかしダヤン・ハーンの権威は「ムスリム勢力を追い払うためのモンゴル部族勢力の一時的な協力」の上に成り立っており、追い出してしまった後は別にフビライ家の顔を立てる必要はなくなったのでした。
1516年、ダヤン・ハーンが死去。
次ハーンの資格は長男トロ・ボロト(父の在位中に死亡)の子ボディ・アラクなのですが、ダヤン・ハーンの三男で右翼部隊長のバルス・ボロト・ジノンがハーン位を宣言します。
父亡き後、ボディ・アラクの権威は不安定なものがありましたが、さすがにこれは多くの部族から支持を得られず、バルス・ボロト・ジノンのハーン位は無効とされました。しかし各部族のボルジギン家からの独立の志向は続いていきます。
1543年、バルス・ボロト・ジノンの次男で、内モンゴルのトゥメト部族のアルタンが、明朝遠征の自らの功績をもって「トゥシェトゥ・セチェン・ハーン(補佐する賢明なハーン)」の称号を主張。ボディ・アラクはこれを追認しました。
これはアルタンが大ハーンに次ぐ実力者であり自由に意見を述べることができることを大ハーン自身が認めたことを意味しました。
3. アルタンのトゥメト王国
アルタン・ハーンは内モンゴルのトゥマト部族の小領主に過ぎませんでしたが、大胆で野心があり、戦闘に長けた男でした。
アルタンは大ハーンに従属する身ながら、勝手に明朝との二国間の通商関係を求め、始め明朝がこれを認めなかったために1550年に大軍を率いて北京を包囲しました(庚戌の変)。明朝とアルタン・ハーンの対立は続き軍事衝突が続きますが、結局明朝側はアルタン・ハーンの権威を認め、「順義王」の称号を与え通商を認めました。
明朝と和平し背の憂いがなくなったアルタン・ハーンは、内モンゴルからオイラート、青海地方まで遠征して支配領域を拡大。ボディ・アラク・ハーン死後の次ハーンとなったダライスン・ゴデンは、興安嶺山脈の東に逃亡。
アルタン・ハーンはモンゴルの大部分と青海地方を統一し、チベット近くまでを支配する「トゥメト王国」を成立させました。
トゥメト王国の中心地となったのは、現在の中国・内モンゴル自治区の大都市フフホト。フフホトはチベット・外モンゴル・青海を結ぶ交通の要所にあり、西域と北京を繋ぐ貿易の一大拠点でした。この地を拠点にトゥメト王国は商業で栄え、街は大繁栄することになります。
また、西域との強い繋がりは、モンゴルへのチベット仏教の普及をもたらしました。
フフホト周辺には数多くのチベット寺院が建立され、仏典の翻訳や大蔵経のモンゴル語翻訳もこの時代に完成しました。
4. 清王朝のモンゴル高原支配
興安嶺山脈の東部に逃れたボルジギン家は、1604年に大ハーンに即位したリグダン・ハーンがモンゴル再統一を試みました。
当時はモンゴル高原の大部分はトゥメト王家の支配下にあり、その他オルドス王家、外モンゴルでも4つの王家が独立状態にありました。
1620年代からリグダン・ハーンは「チンギス・ハーンの支配したモンゴルを復活させる」として積極的な軍事行動を開始します。
1628年にトゥメト王国の都フフホトに侵入してトゥメト王家の者を全て殺害し、独立状態にあったハラチン王国を崩壊させ、アルティン・ツァーリ王国にも攻撃を与えました。
この頃、満州地方を中心に女直族を統一し急速に力を付けていたのが後金国のヌルハチでした。
東部に出現した強力なライバルにリグダン・ハーンは強硬な態度で臨み、ヌルハチとの関係改善を図るモンゴル部族を攻撃しました。
この行為は後金国のみならず同族からも非難を浴び、リグダン・ハーンの「自分の手でチンギス・ハーン支配を復活させる」という頑な姿勢は次第に信頼を失っていきます。
1630年、リグダン・ハーンは青海地方で発生していたチベット仏教・ゲルグ派とカルマ派の争いに、カルマ派を支援するために軍を興しました。内モンゴルがガラ空きになった隙に、後金国の太祖ホンタイジがフフホトを占領。リグダン・ハーンの支配を嫌っていたモンゴル諸部族は、ほとんど抵抗せずにホンタイジの支配を受け入れたそうです。
当のリグダン・ハーンは、フフホトの陥落を受けて絶望したのか青海遠征中に病死。強大な後金国に立ち向かう軍も支援も見込めず、リグダン・ハーンの子エジェイ・ホンゴルはホンタイジに降り、1636年にモンゴル諸部族は「ボグド・ハーン」の称号をホンタイジに贈りました。この称号は「チンギス・ハーン」の別号で、モンゴルがホンタイジをモンゴル高原の支配者であると認めたことを意味しました。
すぐにホンタイジは国号を後金から「大清」と変更。
ここにおいて、正式に「元朝」は滅びることになったのでした。
まとめ
王族というのは尊重されていながらも、能力がなければ直系であっても結構簡単に追い落とされたりしています。かなり厳しい世界です。
ダヤン・ハーンやアルタン・ハーン、リグダン・ハーンなど傑物が何人も現れていますが、彼らの力を持ってしてもモンゴル高原+αの統合しか成し遂げられず、いかにチンギス・ハーンやフビライ・ハーンが怪物だったかと、彼らの存在がいかに大きく、偉大すぎる先祖が子孫に対して大きなプレッシャーとなっていただろうかと想像できます。
参考文献
岩波講座 世界歴史11 中央ユーラシアの統合 ポスト・モンゴル時代のモンゴル 森川哲雄
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