近代タヒチ史――タヒチの近代化とフランス植民地化
タヒチはヨーロッパ人が到達するまで、複数の首長に統治された部族的な社会でした。
武器が持ち込まれるようになると、ヨーロッパ人の力を背景にしたタヒチ人による中央集権体制が出来上がっていきますが、やがて野心的なフランスに取り込まれていきます。
1. ヨーロッパ人が到達するまでのタヒチ
古代のタヒチは身分制社会で4階級に分かれていました。
アリイ・マロウラ … 神の子孫と称する支配階級
アリイ・リイ … 小さな所領を持つ上位貴族階級
フイ・ラーティラ … 首領の領地を守る下位貴族階級
マネフネ(平民) … 上位階級の召使
支配階級は下層階級の人たちに対し絶対的な権力をふるい、一部のタブー(禁忌)も支配階級だけは破ってよかったし、支配階級の触れたもの・立った地は下層階級の者は触れることすらできませんでした。
この4階級の他には「アリオイ」と呼ばれる聖職者が存在し、一定の試験を受ければどの平民でも就くことができましたが、アリオイは子どもを持つことが許されませんでした。
禁忌を意味する「タブー」という言葉は、ポリネシア語の「tabu」に由来します。tabuは、道徳的・儀礼的な規範や慣例に基いて禁じられている行為のことを指します。
例えば、漁業資源保護のために「カツオを採ることがタブー」になったり、貴重な豚の適正配分のために「女性が豚を食うことがタブー」になったり、資源を巡った争いが起きないように「自分のとこ以外のココナツを取ることがタブー」になったりしました。これらのtabuを破ることは、神の怒りに触れたとされ場合によっては死をもって償わされる場合もありました。
タヒチを含むポリネシアでは、紀元前には東南アジアからの文明を受け継いで土器を使っていたようですが、今から2500年ほど前から次第に使わなくなっていったようです。それは文明の後退というわけではなく、アヒマーと呼ばれるかまどで調理する調理法が一般的になって土器を使わなくてもいいようになったからです。
深さ15センチほどの穴を掘り、そこに薪を並べ、その上に石を敷き、ヤムイモ・魚・豚・バナナ・ココナツなどの材料をバナナの葉でくるみ置く。さらにその上にパンノキの葉で多い、熾火で1時間ほど蒸し焼きにします。
それを一族の者とゆっくり食すわけです。ゆったりのんびりした生活だったでしょうが、魚もイモもバナナも自分たちで取ってこなくてはいけなかったから、食事の支度だけで1日潰れたに違いありません。
さらにはタヒチには象皮病という風土病があり、これにかかると皮下組織が象のように厚くなり、足や手などが異常にむくんでいく。フランス政府による投薬と血液検査が実施される前までは、かなりの割合で象皮病の患者がいたそうです。
ポリネシアの踊りと聞くと、夜に半裸の男女が踊り狂うのをイメージしてしまいますが、確かにそういうのもありました。
儀式のとき、戦争に行くとき、外来者を歓迎するときなどありとあらゆる場面でダンスが披露され、こうしなくてはいけない・こうしてはダメなど細かい決め事がたくさんあったようです。
特に夜だけに踊られるダンスは、ほぼ裸の娘が腰をくねらせる妖艶なもので、後にフランス人に「性欲をかき乱す」とされ禁止されましたが、宗教の祭りが終わった後は人々はフリーセ○クスを大いに楽しんでいました。性に関しては相当大らかなだったようです。
2. ヨーロッパ人が見た「楽園タヒチ」
ヨーロッパ人として初めてタヒチを訪れたのは、イギリス人のサミュエル・ウォリス。
ウォリスは女王陛下の命を受け、太平洋の南方にあるとされた大陸(オーストラル)を探す探検の途中で風に流されて、1765年8月12日にタヒチに流れ着きました。
ウォリス一行は島の女王オベレアに歓待され、新鮮な食料や水の供給を受けましたが、島の人間たちが勝手に船に上がってきて勝手に物を盗んでいってしまったため、激怒した水兵が砲弾を放ち、それに敵意を持った住民側が攻撃を仕掛けてきた。
これは「来訪者の持ち物は住民に自由に配布されるもの」というタヒチの慣習なのですが、それを知らなかったウォリス一行はタヒチを「盗人の島」と呼びました。
一悶着はあったにせよ、ウォリス一行は「女性の提供」などを受けてオベレアと和解し、「タヒチをイギリス領と宣告する儀式」を行いました。それがどういう意味なのかタヒチの人間は誰も理解できなかったに違いありません。
その10ヶ月後にタヒチにやってきたのはフランス海軍士官のルイ・ブーガンヴィル。ブーガンヴィル探検隊も南方大陸を探し求めてやってきており、その途上でタヒチに9日間滞在しています。
ブーガンヴィルは記録の中で、タヒチを「裸の美しい女性がたくさん」「官能の楽園」と書いており、それが後にタヒチの「南国の楽園」のイメージにつながっていきます。
ブーガンヴィルはこれだけではなく、タヒチの地理や言語、文化、宗教についても解説を残しています。出港の歳、アウトルという名の若い首長がフランス行きを望み、ブーガンヴィル一行と共にインド洋を横断しフランスに帰港しました。アウトルはブーガンヴィルに対し当時のタヒチの文化や習慣を説明し、そのおかげで正確な記録が残すことができました。
3. バウンティ号事件とポマレ一世
1789年、イギリス領西インド諸島にポリネシアからパンノキを移植する命令を受けたブライ船長は、パンノキの苗木をバウンティ号に乗せてカリブへ航海をしようとしていました。
ところがタヒチの天国のような生活を離れたくなかった水兵が反乱を起こし、ブライ船長と船の指導層をカッターボートに乗せて追放してしまいます。9名の水兵はその後タヒチの女をバウンティ号に乗せてピトケアン諸島まで逃げていきました。
ピトケアンへの逃亡に参加しなかった水兵16名は、タヒチに舞い戻りまた再び元の生活を取り戻していたのですが、彼らを雇ってタヒチの武力統一を成し遂げたのがポマレ一世です。
ポマレ一世は血気盛んで野心家な男で、他の首長たちを武力で支配下に置こうと目論んでいました。ポマレ一世はバウンティ号の反乱者16名を雇い、彼らの持つマスケット銃を用いて2年程度で武力統一を成し遂げてしまいました。
タヒチの王になったポマレ一世は、後にイギリスからやってきたパンドラ号のエドワーズ一行に水兵たちを引き渡すことに同意。反乱水兵は本国で裁判を受けるために連行されました。
ポマレ一世はタヒチでのキリスト教の布教をヨーロッパ人に認めてタヒチの女を与える代わりに、彼らから武器や物資を受け取り支配の確立を進めていきました。
野心家・ポマレ一世は武力統一の12年後の1803年に死亡。息子のポマレ二世が王を引き継ぎます。
4. タヒチの中央集権化とキリスト教化
ポマレ二世は残忍な男で、戦闘となると老若男女問わず徹底的に殺しまくったため恐れられた男でした。
1808年、タヒチ島で反乱が起きポマレ二世は鎮圧軍を仕向けるも何度も失敗する。タヒチの神に見捨てられたと思った彼は、イギリス人宣教師ヘンリー・ノットの助言に従いキリスト教徒になってしまいました。
キリスト教徒になったポマレ二世は、ライアテア島のタマトア四世とボラボラ島のタポア一世の援軍を借りてタヒチ島に上陸。決定的な勝利を得て、タヒチ島でポマレ王朝を開きます。ポマレ二世は伝統的なタヒチの宗教を禁じ、神像を焼き払い、嬰児殺しなどの伝統的習慣を禁じ、全島民をキリスト教徒に改宗させました。
ポマレ二世は経済的にもヨーロッパとの結びつきを強め、特にオーストラリアとの間で塩漬け豚肉の輸出で莫大な富を得た。代わりにタヒチはオーストラリアから衣類・工具・武器・弾薬・酒などのヨーロッパ製品を輸入し、タヒチは経済的・物質的にも豊かになっていきました。
ポマレ二世は1821年に死亡しますが、彼の葬儀はキリスト教の儀礼に則って行われ、父親のポマレ一世が伝統的な儀式で葬儀を行ったのとは対照的で、当時既に伝統的な司祭は姿を消していました。
ポマレ二世によってタヒチはイギリス主導でキリスト教化していきますが、その原動力となったのが主にヨーロッパから運び込まれる豪華な品物や強力な武器でした。
タヒチの人々は、外国人が運びこむ見たこともない珍奇な品物を見て触れることで、キリスト教徒になることでこのような驚嘆すべき品を作ったり手に入れたりできるようになると信じるようになりました。
タヒチ島に大聖堂が建設され、タヒチ人の宣教師が養成され、各島へ物資とセットで宣教師が乗り込んでいき、ボラボラ島やライアテア島、ライヴァエ島といった島々も次々とキリスト教化していき、伝統的な宗教は捨てられていったのでした。
5. フランス・タヒチ戦争と植民地化
ヨーロッパ人が持ち込んだ梅毒が蔓延し、これまでタヒチにはなかったアルコールが広がり、ポマレ王朝の戦争で戦死者が多く出たこともあり、ポマレ二世の死後の政局は不安定になっていました。
また、一部の者はキリスト教から離れ、ダンスや刺青などの伝統文化を復活させる運動を開始。タヒチの人々の分裂が始まっていました。
ポマレ二世の死後に王に就いたのは幼いポマレ三世でしたが、在位わずか6年で1827年に死亡。王となったのはポマレ二世の妹で妻のテレモエモエが生んだ14歳の娘でした。
当時タヒチは完全にイギリスとイギリス人宣教師(プロテスタント)の支配下にありましたが、フランス人宣教師は太平洋島々で活動領域を広げ、ポマレ王国にも徐々にカトリックの伝道を伝えるようになっていきました。時は欧米列強による植民地争奪戦の真っ最中。太平洋に何の権益も持たないフランスは、タヒチにその橋頭堡を築こうとしました。
次第にタヒチはイギリスとフランスの植民地獲得代理戦争の様相を呈してきます。
1836年、ポマレ四世はイギリス人宣教師プリットチャードの意見に従い、フランス人宣教師カレとラヴァルを有害外国人として追放してしまいます。フランスはこれに対しポマレ四世に抗議し、謝罪とスペイン金貨2000ピアストルの支払いを要求した。ポマレ四世は謝罪し、フランス人の自由な来訪と布教と貿易の自由を約束しました。
しかしフランス海軍少将デュペティ・トゥアレは「フランス人は虐待を受けている」と主張し状況の改善と財政の保証を要求。女王不在の中で摂政パライタはフランスの要求に対しタヒチ王国の間違いを認め「フランス国王の保護を求める」回答をした。パライタはこの時すでにフランス側に買収されていたか傀儡になっていたんでしょう。
デュペティ・トゥアレは本国に相談なしにこれを受け入れ、パペテエに暫定政府機関を設立しました。イギリス領事プリットチャードはこれに抗議。ポマレ四世もルイ・フィリップからの保護条約批准書が届くや抗議のために王宮を離れ、イギリスの支援を求めました。
ところがイギリス本国は「イギリスはフランス保護国の設立に対し反対しない」と回答。何らかの裏取引でもあったのでしょうか。これによりプリチャードは追放され、身の危険を感じたポマレ四世は反フランス蜂起を呼びかけました。
1844年3月21日、フランス兵2人が殺害されたことを理由にフランス軍艦隊が砲撃を開始。フランス・タヒチ戦争の始まりです。
ポマレ四世の呼びかけに従って多くの首長は対フランス戦争に協力しましたが、摂政パライタはフランス側に立ったし、数人の首長もモーレア島の首長もフランス軍に協力していました。
初戦の段階では、上陸してきたフランス軍に対しタヒチ軍は挟み撃ちをし殲滅する構えを見せてきました。これを打開しようと軍艦の砲撃の援護のもと、三門の大砲を駆使してフランス軍がタヒチ軍を追い払いました。タヒチ側は山間部を支配し、フランス側は海側に砦を築き、小さな戦闘が続きます。
1845年4月23日、総督ブリュアはポマレ四世が匿われているライアテア島へ上陸しますが、タヒチ軍の銃撃により17名のフランス兵が死亡し53名が負傷する手痛い反撃を受け、タヒチ島に引き返します。ところがそのタヒチ島でも大規模な攻撃があり、7人が死亡し18人が負傷。フランス軍はモツ・ウタ島に逃げ込み本国からの援軍を待つことになりました。
1846年5月25日、本国からの援軍を迎え1200名のフランス軍はタヒチ側のパペノオの野営地を攻撃して敵を撤退させ、その後プナルウも陥落させて、大規模な攻勢で主要な拠点を落としていきました。これを受けて各地の首長は次々と降参。とうとう1847年2月、ポマレ四世は降伏しパペエテに戻りフランスの保護条約を受け入れたのでした。
6. その後
フランスの統治を受けることになったタヒチでは、様々な「近代的法律」が施行されていきます。
それまでお腹が空いたらてきとうにそこらの果物を取って食べても良かったのが、「窃盗の禁止」によって罪に当たるとされたり、卑猥なダンスや歌は「情欲をかき乱す」として禁止され、もちろん売春も禁止されました。キリスト教的な価値観に基づいた各種法制度が施行され、伝統的なタヒチの生活や価値観はこれで名実ともに終わりを遂げたのでした。
まとめ
王朝というものがそれまで存在せず、古代のままの時間感覚で暮らしていた人々の前に、圧倒的な軍事力と文化力を持つヨーロッパ文明が流入すると、その魅力的すぎる物資の前に伝統的な宗教や権威はいとも簡単に陥落してしまいました。
以前の文化に立ち返ろうとする揺り戻しも起こったし、もちろん2000年以上も続いた伝統的な生活や伝統文化が一朝一夕でひっくり返ったわけではありませんが、それだけの長い伝統も「文明の魅力」の前には白旗を上げるしかなかったわけです。
確かに物質的には豊かになり、医療の充実で寿命は延びたかもしれませんが、それ以上に失ったもののほうが大きい気がします。とはいえその時タヒチが他に取る道はあったか?と言われたら、口を閉ざすしかないのですが…。
参考文献
「タヒチ 謎の楽園の歴史と文化」 彩流社 池田節雄
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