ボーア戦争史――大英帝国が飲み込まれた「泥沼」
ボーア戦争と言えば、イギリスが豊富な金やダイヤモンド鉱脈を持つ南アフリカを自らの領土とすべく、オランダ系住民が建てたトランスヴァール共和国やオレンジ自由国を打ち倒した戦争として、高校の世界史でも学びます。
ですが、世界史的文脈で言うと、ボーア戦争こそ半世紀後に訪れる大英帝国の瓦解を予知する出来事であり、帝国の矛盾が露出し様々な反戦運動が巻き起こった一大事件でした。ボーア戦争にこそ20世紀で起こる様々な悲劇の兆しがあり、なぜこの悲劇を我々人類は見逃してしまったのかという意味で、再び学ぶ価値のある事柄と思います。
1.英領ケープの成立とグレート・トレック(大移動)
1806年、イギリス軍がケープタウンを占領し、約5,000名の植民者が入植しました。
イギリスはケープタウンの支配を進め、人道的観点から「黒人奴隷の解放」を宣言。ボーア人の農業経営は大きく圧迫されます。またオランダ語の使用は禁じられ、英語が話せないボーア人は政治・経済的に不利益を被るようになり、たまりかねたボーア人たちは集団で移動を開始しました。
1835年から始まったボーア人の大移動は「グレート・トレック」と呼ばれます。
この時北方を支配していたのはズールー人のズールー王国。
シャカ王の時代に強大化したズールー王国は強力な常備軍を有し、「牛の角陣」から繰り出される組織的な突撃は白人にも恐れられていました。
ズールー王国の王ディンガネは家族連れで北に移住してくる白人を敵視し、組織的に白人のトレッカーを襲撃。数千人のボーア人がズールー戦士によって虐殺されました。
ボーア人もやられっぱなしだったわけではなく、1838年12月16日に行われた通称「血の川の戦い」では、牛車で円陣を組んで守りを固めてズールー戦士をおびき出し銃と大砲で一斉に射撃し撃退。ボーア人の死者3名に対し、ズールー人の死者3,000名以上という、まさに完勝でした。
ズールー人を撃退したボーア人は、現在の南アフリカ南東部に落ち着き、イギリス当局に対しナタール共和国の成立と独立の承認を求めました。
しかしイギリスはナタールをイギリス領とし、一切の自治を認めませんでした。これに対し、一部のボーア人は1844年から再び大移動を開始(第二次グレート・トレック)。
この結果、1852年に現在の南アフリカの首都プレトリアを中心とするトランスヴァール地域に「トランスヴァール共和国(南アフリカ共和国)」が成立しました。
その2年後、オレンジ川以北の領土にも同様に「オレンジ自由国」が成立しました。
1860年代、オレンジ自由国領内のキンバレー周辺で世界有数のダイヤモンド鉱山が発見されました。原住民のグリカ人の首長はイギリスにダイヤモンドの所有権を主張しイギリスに保護を求め、これを口実にイギリスはオレンジ自由国に軍事干渉して占領。キンバレーを保護領とし、ケープ植民に組み組んでしまいました(上記地図で「Stellaland」と記載のある箇所です)。
このダイヤモンド鉱山の開発で大成功した人物が、イギリス人実業家・政治家のセシル・ローズ。「ケープからカイロへ」のカリカチュアは教科書に載っているので見たことあると思います。
セシル・ローズは10代でキンバレーにやってきてダイヤモンド研究に打ち込み、ロスチャイルド家の経済力を背景にダイヤモンド鉱業会社を買収。一気にダイヤモンド王にのし上がりました。
このセシル・ローズこそが、南アフリカの歴史を血塗られたものにした張本人。のちに勃発するボーア戦争も、セシル・ローズを筆頭とする財界が裏で糸を引いていたのです。
2. ボーア・イギリス・地元部族の南ア支配をめぐる戦い
ボーア国家の輪郭が整い始めた19世紀半ばから、イギリス、ボーアの白人勢力に加えて、ズールーやソト族、スワジ族といった現地黒人勢力も利権の獲得や領土の確保を目指して合従連衡を繰り広げることになりました。
ソト族は現在のレソト共和国に住む山岳遊牧民族で、指導者モショエショエはオレンジ自由国と国境線を平和裡に定めていましたが、オレンジ自由国大統領ボショフはボーア人に有利なように国境を引き直そうとしたため、1858年3月にソト族との戦闘が勃発。
ソト族の領地に侵攻したボーア人でしたが、自然の要害に守られたソト族の戦士は手強く、攻め込むどころか逆にオレンジ自由国に攻め込まれる勢い。ボショフは和平を乞い、国境線は据え置かれました。
しかし7年後、モショエショエの甥がボーア人の牛を殺したことを口実に、再び戦闘が開始されました。この時はボーア人の戦闘員は前回の2倍以上、武器も最新のものを用意しソト族の戦士を圧倒。モショエショエは降伏し、王国内のもっとも肥えた土地をオレンジ自由国に割譲させられました。
現在も存在するエスワティニ(旧国名スワジランド)は、当時はトランスヴァール共和国と国境を接していました。2代国王ムスワティは北方のズールー族を牽制する目的で、スワジ王国内へのボーア人の居住を認めました。ボーア人にとっては、イギリス人との戦いにあたってはスワジ王国との友好関係は重要でした。
しかし3代国王ムバンヅェニの時代になると、ボーア人は王国内で牛を略奪したりスワジ人から土地を奪い取ったりしたため、次第に親イギリス・反ボーアの態度を採るようになります。
イギリスとしても、将来的なトランスヴァールの併合を考えた時に、スワジ王国は戦略的に要衝の地にあたり非常に重要だったのです。
1873年、ズールー王国では親イギリスの国王が死に、ディンガネの甥セチュワヨが国王となりました。セチュワヨは王国を守るため白人に対し毅然とした態度を採るべきと考える男でした。
1878年7月にナタール総督フレーアがセチュワヨに対し「イギリスの指導の元、ズールーの軍事組織・徴兵制度を全廃すること」を要求。
国を奪われるに等しい要求に激しく反発したセチュワヨは、3万人のズールー戦士を集めました。ズールー戦争の勃発です。
この戦争は近代兵器を有するイギリス軍が、弓や槍といった武器しか持たないズールー族を圧倒したのですが、1879年1月22日に発生したイサンドルワナの戦いでは、イギリス軍2,200がズールー戦士2万の猛攻を受けて壊滅。
この戦いの勝利は現地部族を勇気付け、自信を取り戻すきっかけになりました。
しかしそれ以外の戦闘ではイギリス軍はズールー戦士を圧倒し、1879年8月にセチュワヨはイギリスに降伏。ズールー王国は消滅し、のちにナタールとトランスヴァールに併合されてしまいました。
3. 第一次ボーア戦争の勃発
豊富なダイヤモンド鉱山の独占を狙うイギリスは、トランスヴァールの併合を目論見ます。そのやり方はかなり直球で、トランスヴァールの政治混乱に乗じて「トランスヴァール併合宣言」を布告し軍隊を送り込んで占領するというもの。
1877年4月にケープ総督フリーアが「併合宣言」を出し、混乱するトランスヴァール側を尻目にすぐにイギリス軍が出動し首都プレトリアを占領しました。
トランスヴァール共和国の政府は追放されるも、政府の主だった連中や指導者たちは3年あまり戦争の準備をし、1880年12月に再びプレトリアに結集。人民集会を開きイギリスに対し「政権の引き渡し」を要求。イギリスは当然これを拒否。するとトランスヴァール内のボーア軍が挙兵し、第一次ボーア戦争が勃発しました。
開戦直後、シュミット大佐率いるボーア軍は、ブロンクホルスト川にてイギリス軍第94連隊を簡単に撃破。イギリス軍はボーア軍に包囲され、窮地に陥ります。
そこでイギリス軍はコリー少佐率いる1200の部隊を救援に向かいました。それを阻むのはボーア軍の将軍ジュベールで、率いるのは主に農民からなるボーア民兵。トランスヴァールとナタールの国境地帯ライングス・ネックの守備についたボーア民兵の武器は、明らかにイギリス軍より劣っており、軍服もなくバラバラでした。
にも関わらず、ボーア民兵たちは地の利を生かしイギリス軍の一斉砲撃を無効化。1人1人が優れたハンターであったボーア民兵は確実にイギリス兵を撃ち倒していく。結果、イギリス軍の死傷者200名、ボーア軍の死傷者41名という一方的な展開となりました。
復讐を誓うコリー少佐は、ライングス・ネックを東に見下ろせるマジュバ・ヒルに陣取って、ここからボーア側を迎え撃とうと考えました。2月20日に400名の軍勢で闇夜に紛れて丘の占拠に成功します。
これを知ったボーア側は、山岳地帯での戦闘に慣れた手練れを60名選抜し、丘を急襲し奪還する作戦を決行。
三手に別れ物陰に隠れながら移動し、合図をもとに一斉に突撃。完全に虚をつかれたイギリス軍は大混乱に陥り、コリー少佐を含む86名が死亡、133名が負傷しました。
コリー少佐の死はイギリス政府を動揺させ、トランスヴァールとの講和に傾きました。
当時はロシア皇帝アレクサンデル2世の暗殺、アメリカ大統領ガーフィールド暗殺事件、アイルランド独立運動家パーネルの投獄、フランスのチュニジア占領、エジプト・アレクサンドリアの民衆蜂起、スーダン・マフディー運動の開始など、イギリス政府はあまりにも多く対応すべき事柄があり、ぶっちゃけ南アフリカどころではありませんでした。
オレンジ自由国のブラント大統領の仲介で、プレトリア講和会議が締結されました。
ボーア側は戦闘ではイギリス側を圧倒したにも関わらず、戦闘が終結し民兵が皆帰宅し軍事的脅威が消滅しまったため、講和は終始イギリス側優位に進むことになりました。
この講和の条項でトランスヴァールは「イギリスの宗主権の元に自治政府を回復する」「トランスヴァールは外交権を持つが、第三国と条約を結ぶ際はイギリスの許可が必要」などとあり、イギリスがトランスヴァールを完全に支配下に置く内容でした。
これを不服とするトランスヴァール側は、イギリスと粘り強く交渉を行い、ロンドン協定にて「イギリスの宗主権の元に」という事項を削除させ、「第三国と条約を結ぶ際はイギリスの許可が必要だが、6ヶ月以内に返答がなければ承諾されたとみなすことができる」と変更させることに成功しました。
しかし、トランスヴァールの宗主権蜂起といった文言は一切なく、このロンドン協定は塩漬けにされ、10年後に第二次ボーア戦争が勃発するに至ります。
4. 金鉱脈の発見
1886年、トランスヴァール共和国・ヨハネスブルグ西方の町ラントで世界有数の金鉱脈が発見されました。
すぐに多くのゴールド・ハンターが流れ込み、ゴールドラッシュがスタート。ボーア系住民も7,000人がラントに移住しますが、イギリス系は2万人もの住民が移住し、町の多数派になってしまいます。さらにセシル・ローズらのイギリス系大資本が本格的に金採掘に参入し、ますますイギリス系がトランスヴァール内で力を付けていきました。
トランスヴァールのイギリス系は、アイットランダーズ(外国人)と呼ばれ、イギリスと結託しトランスヴァール政府と鋭く対立していくことになります。
南アフリカの金は地下深くに眠っており、しかも含有率が低かったので、充分な利益を出すには「大量の人手」と「多額の資本」が必要でした。
そのため資本力のあるイギリス系が生き残り、ボーア系やドイツ系の資本は後に撤退を迫られることになります。
1890年にケープ首相に就任したセシル・ローズは、金採掘の安価な労働力確保を目指し、1894年に「グレン・グレイ法」を成立させました。
これは家長以外の土地を持たない黒人に年1回以上の居住区以外での労働を義務付け、従わない場合は罰金を課すというもので、後のアパルトヘイト政策の骨格となるものでした。
5.イギリス・トランスヴァール関係の悪化
トランスヴァール共和国政府は、採掘に使うダイナマイト販売を国で独占し多額の税をかけました。その多くはドイツからの輸入品で、共和国内の鉱山ではドイツ製を使うことが義務付けられ、アイットランダーズは費用の高さに不満を持っていました。
さらに当時、トランスヴァール政府は金や農産物をイギリス領を通過せずに港に卸して輸出すべく、トランスヴァールとドイツ領南西アフリカ(現ナミビア)とドイツ領東アフリカ(現タンザニア)を鉄道で繋ぐ計画が立てられました。
トランスヴァールとドイツは結託しており、ドイツはセシル・ローズの「ケープからカイロまで」戦略の妨害を企てていたのでした。
1894年に完成したデラゴア鉄道は、プレトリアと中立国ポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケス(現マプト)を結ぶもので、セシル・ローズはロレンソ・マルケスの買収をポルトガルに提案するなど抵抗しますが結局果たせず、イギリスとトランスヴァール&ドイツ間の対立は激化していきました。
そんな中、セシル・ローズは友人のジェームソンと共和国のアイットランダーズと共謀し、反共和国政府の反乱を起こして武力によりイギリス系資本とイギリス系住民による共和国独占を目論みました。いわゆる「ジェームソン侵入事件」です。
1895年12月、ジェームソンらはイギリス系やアイットランダーズを集めて蜂起するのですが、兵力は当初予定の2万人から大幅に下回る500人で、銃も予定の半分しか集められず、完全な準備不足のままトランスヴァールに侵入しました。
果たして、ジェームス軍はトランスヴァール軍に一蹴され、死者134名を出し残りは全員捕虜になりました。この企みの失敗でセシル・ローズはケープ政界から追い落とされ、イギリス政府は「ジェームスの事件と我が国政府は何ら関係がない」と釈明を繰り返すしかなかったのでした。
1897年8月、保守党出身で元エジプト財務次官のアルフレッド・ミルナーがケープ植民地長官に就任しました。
セシル・ローズは「ケープ、ナタール、トランスヴァール、ローデシアの植民地自治論者」で、大英帝国の介入を嫌い独自に植民との経営を目指す立場でしたが、ミルナーは「大英帝国の一部としての南アフリカ合衆国の建設」を目指す立場でした。
ミルナーは新聞を活用し「イギリスによるトランスヴァールの完全併合」の世論を作るキャンペーンを展開。共和国のアイットランダーズを奮起させます。
そうして世論が盛り上がったタイミングで、ミルナーはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国との会議の中で「アイットランダーズの市民権獲得のためには武力行使も辞さない」としました。
イギリス植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、ジェームソン侵入事件以来慎重だったトランスヴァールへの介入の方針を撤回し、強硬派ミルナーの意見を受け入れ「トランスヴァール併合戦争」の方針に動いていきました。
6. 第二次ボーア戦争の勃発
イギリスは着々と戦争の準備を進め、相対するトランスヴァール共和国もオレンジ自由国も戦争が不可避であることを悟り、ドイツやフランスからの武器の輸入を開始。
先に最後通牒を出したのはトランスヴァール。
係争の問題はすべて仲介裁判所によって処理されること
共和国国境のイギリス軍を即時撤退させること
6月1日以降に到着したイギリス軍増援部隊を南アフリカより撤退させること
現在輸送中にイギリス軍を南アフリカに上陸させないこと
48時間以内に回答がない場合は宣戦布告とみなす、というもの。
そしてイギリスによる回答はなく、1899年10月に第二次ボーア戦争が勃発したのでした。
開戦当初のボーア側の兵力は約5万。ドイツからの武器の援助があったものの、イギリス軍が圧倒的に有利で、イギリス国内では「2ヶ月以内にプレトリアを占領できる」という楽観論が支配的でした。しかし、予想に反してボーア側の抵抗が凄まじく、この戦争は3年半以上も続くことになります。
最初の本格的な戦闘は、ナタールのタラナ丘陵での戦闘でした。
老将軍ジュベールの指揮の元、ボーア3個軍団約4,000が、レディースミスとダンディーのイギリス軍の合流を妨害すべく、追いついて襲撃するという作戦。ボーア軍ウォルラマンズ少佐の1,500名はタラナ・ヒルに到着し、イギリス軍に丘の上から攻撃を加えました。
まったく不意を突かれたイギリス軍のペン・シモンズの旅団は、始めは混乱するものの、隊を立て直し丘を占領。しかしこの戦いではボーア軍の死者が150名であったのに対し、イギリス軍の死者は500名にも上りました。しかしイギリス側はこれを勝利として大々的に報じたのでした。
その後もイギリス軍の苦戦は続きます。
イギリス軍は守備隊駐屯都市として、ナタール北部のレディースミスという町を選び、この地からフランク・カールトン大佐は、1,120名の部下を率いてニコルソン峠に向かって進軍していました。ところが荷駄のラバが逃亡し、補給を失った隊はレディースミスに撤退を始めました。ここにボーア軍500〜1,000が襲いかかり猛烈な発砲を浴びせ、イギリス軍は死者38名、捕虜1,000名を出す文字通りの大敗を喫しました。
大勝利したボーア軍はレディースミスを包囲し、イギリス軍1万1,000が孤立することになってしまいました。
7. 「ブラック・ウィーク」
1899年11月末、ボーア第二軍はオレンジ川にかかる橋を渡ってシュトルムベルクに向かって南進を続けていました。これを迎え撃つイギリス軍は、ジョン・フレンチ少将の西部軍とウィリアム・ガタクル中尉の東部軍。
シュトルムベルクから12.8キロの距離にあるモルテノまで行軍をした東部軍は夜中に目的地から3キロほど外れた地帯に辿り着き、長い行軍で疲れた隊はその場で休息をしました。しかしそこはボーア部隊2個の中間地帯にある危険な場所でした。
果たして、夜明け後にボーア軍約800名から激しい攻撃が始まりました。数発の榴散弾が爆発しヘンリー・イーガー中佐ら7名が負傷し、残された者は斜面を駆け下りて逃亡。イギリス軍により農地を荒らされたボーア農民も武器を持って襲撃を開始し、1時間半の戦闘でイギリス軍は死亡約135名、行方不明571名を出す大敗を喫したのでした。
シュトルムベルクの戦いの翌日に、キンバリー南東部のマゲルスフォンテンにて、ボーア軍8,000とイギリス軍8,000の戦いが始まりました。イギリス軍司令官はアンディ・ワウチャウプ少将で、アフリカの現地勢力との戦いの経験を多く持ったベテランの司令官でした。
イギリス軍ハイランド旅団4,000が12月11日未明、雨の降る中をコプジェに向かって進軍していました。ボーア軍は塹壕に隠れてイギリス軍の接近を待っており、ブリキ缶のトラップの音を合図に一斉に攻撃を開始しました。
至近距離からの一斉砲撃は凄まじく、ハイランド旅団の将校たちは1/4以上が死傷。総勢971名が死傷。一方でボーア軍はその1/4たらずの死傷者でした。
この敗北はイギリス軍は強い衝撃を与え、キンバリーやマフェキングの包囲が続いているにも関わらず、全面的な撤退を迫られることになったのでした。
ボーア軍の老将軍ジュベールから第三軍を引き継いだのは、37歳の将軍ルイー・ボータ。ボータはイギリス軍ビューラー将軍率いる2万の大軍がレディースミスの救援のためにコレンゾの近くを通ることを予測し、歩兵・砲兵・榴弾兵からなる部隊を待機させました。
そして12月15日早朝、ビューラーの旅団がツゲラ川の方角に進行中の時に、ボーア側の砲弾が着弾。同時に、待機していたボーア小銃隊の発砲が開始され、イギリス軍のロング砲兵隊は善戦したものの、退却を余儀なくされます。
次いで到着したハート少将の第二ダブリン歩兵連隊は、ツゲラ川を渡ろうとするも浅瀬が見つからず、川沿いに行軍を続け、これが原因でボーア狙撃兵の格好の的になってしまい、532名のうち216名が死傷する最悪の結果を招きました。
さらには、右翼から進軍してきたダンドナルド隊も、ボーア軍の突然の発砲により狼狽し多くの犠牲者を出しました。
このコレンゾの戦いでイギリス軍は1,139名が死傷し戦争始まって以来の最大の犠牲者を出した一方で、ボーア軍の死傷者はわずか29名。
「イギリス軍がそれまで従事した中で最も不幸な戦闘の一つであり、そこで展開されたもの以上に嘆かわしい戦略的表示というものは見られなかった」と酷評されました
これら一連の敗北は「ブラック・ウィーク」と呼ばれ、イギリス国民のボーアへの怒りをかきたて、「ボーア戦争は大英帝国の威信をかけ、何としてでもボーアを叩き潰さねばならない」という世論が沸騰。
ブラック・ウィークをきっかけに、イングランドからだけではなく、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、ビルマなど、大英帝国の各地から義勇兵の募集がかかり、文字通り「大英帝国の戦争」となっていったのでした。
8. イギリス軍の立て直し
年が明けて1900年になったものの、依然としてレディースミス、キンバリー、マフェキングはボーア軍によって包囲されていました。
また、英領ケープのオランダ系住民、通称「ケープ・ダッチ」軍の一部もボーア側で参戦を始めており、ケープ・ダッチの大軍が参戦しケープタウン〜キンバリー間を封鎖すると、イギリス軍は補給が止まり窮地に陥るという状態でした。
イギリス軍は本国や帝国各地から大規模な援軍を送り込み、反転攻勢を開始しました。
1900年2月、キンバリー包囲解除を狙うイギリス軍は増援部隊18万人を率いて北上。2月11日にロバーツ率いる3万3,000〜7,000の兵は、ボーア軍第一軍クロンイェの小部隊を打ち破り、キンバリーに入城。分が悪いことを悟ったクロンイェは撤退し、4ヶ月続いたキンバリー包囲は小規模な戦闘が起こったのみで解除されました。
キンバリーを解放したイギリス軍は、休む間もなく撤退したボーア軍第一軍クロンイェを追撃。ロバーツ軍とフレンチ軍の二手からクロンイェ軍を挟み撃ちにする作戦を立てました。
逃げたクロンイェは2月17日にバールデベルク・コプジェの地に到着し休息を取るも、この地には既にフレンチ軍4万が待機しておりまたたく間にクロンイェ軍を包囲。戦況は明らかにクロンイェ軍不利だったにも関わらず、クロンイェは降伏せずに川沿いに細長く車陣と兵営地を築き防備を固めました。
この防備は固く、イギリス軍は強行突破を試みるも何度もクロンイェ軍に阻まれ死傷者だけが増えていきましたが、ハイランド旅団はしつこく銃剣突撃を繰り返しました。17日の突撃だけで兵の22%が死傷するという異常な事態。
しかもこの突撃は翌18日も繰り返され、参加した1,262名の将兵のうち30%が死傷。銃剣突撃は1週間も繰り返され、頑強なクロンイェの防陣でも支えきれず、2月27日にとうとうクロンイェは白旗を掲げ、降伏しました。
クロンイェ軍の降伏はボーア軍に強い衝撃を与えました。
これまで連戦連勝の空気が一変し士気が低下し、ボーア第二軍・第三軍の退路が絶たれる危険性も生じたのでした。ドゥ・ラ・レイ率いる第二軍はオレンジ自由国の首都ブルームフォンテンに撤退し、防衛に徹することになりました。
勢いづくイギリス。ブルームフォンテンを落とすべくロバーツ軍が進軍すると、ボーア第二軍司令官ドゥ・ラ・レイはアブラハムスクラール付近で首都を防衛すべくイギリス軍と激突。少ない兵力ながら善戦しましたが、多勢に無勢。3月13日にイギリス軍はブルームフォンテンを陥落させたのでした。
これに先立ち、ボーア軍のクリスチャン・ドゥ・ウェットの率いる6,000の軍は、ポプラー・グローブの地でブルームフォンテンに向かうロバーツ軍と戦うのですが、この時ロバーツ軍はドゥ・ウェットを捕らえることができずに逃走を許しています。
後にドゥ・ウェットはボーアゲリラを率いて1902年まで抵抗を続けることになるため、この時に彼を取り逃がしたことでボーア戦争の泥沼化が続くことになったのでした。
ポプラー・グローブから撤退したドゥ・ウェットは、モッダー川を下っていきブルームフォンテンから東へ40キロのところにあるサンナーズ・ポストに1,600名の兵を連れていました。ここにおいて、ドゥ・ウェットは後に多用することになるゲリラ戦術を初めて使うことになります。
350名の兵を引き連れ給水所の西側にある急勾配の岸に沿って隠れ、イギリス軍斥候隊の接近を待って側面から襲撃。この攻撃でイギリス軍159名が死傷し、421名が捕虜になり、武器や弾薬など大量に奪われてしまいました。
ドゥ・ウェット軍は4月4日にも約3,000のイギリス軍にも勝利し、士気が沈んでいたボーア軍を鼓舞し、彼のゲリラ戦術をボーア軍全体が真似するようになっていきました。
9. プレトリア陥落、トランスヴァール併合宣言
ロバーツ軍は約2ヶ月の静養を経て、5月3日にトランスヴァールの首都プレトリアに向けて進軍を始めました。
ブルームフォンテンを出発したロバーツ軍は、オレンジ自由国の臨時首都クロンシュタットを陥とし、オレンジ自由国軍の残党狩りを行った後、5月28日にトランスヴァールの大都市ヨハネスブルグに突入し占領します。
翌日には首都プレトリアに向けて進軍を開始し、ロバーツ自身も6月に3,000の守備隊をヨハネスブルグに残してプレトリアに向けて急ぎ、4日にはプレトリア郊外でボーア守備軍との戦闘に入りました。
トランスヴァール政府は、イギリス軍の大軍の接近の報を聞き、約130キロ離れたミッデルブルクに首都を移し撤退。翌5日にはイギリス軍はプレトリアに侵入し占領。ユニオン・ジャックが掲げられ、ロバーツは大軍を率いて凱旋将軍のごとく入城を果たしました。
プレトリア陥落から3ヶ月後の9月1日に、イギリスは「トランスヴァール併合宣言」を出し戦争終結を国内外にアピールしました。
これでイギリス軍の誰もが戦争の終結を思ったのですが、ボーア側は即座に「反対宣言」を出し、ボーアの若き総司令官ルイス・ボータは徹底抗戦を主張し、ドゥ・ウエットもイギリス軍に対するゲリラ戦をスタートさせていました。
10. ボーア軍の徹底抗戦、戦争の泥沼化
トランスヴァールのクリューゲル大統領は、臨時首都からボーア兵たちに徹底抗戦の檄を飛ばし、それに応える形でボータ、ドゥ・ラ・レイ、ドゥ・ウェットといった司令官たちがゲリラ戦を展開し始めました。
イギリス側はこのボーア側の抵抗はすぐに終わると信じ切っていましたが、「組織的なゲリラ戦」というのはこれまでの戦争で見られなかった新しい戦い方であり、慣れないイギリス軍はこれまで以上の戦死者・負傷者を出すことになります。
トランスヴァール領内においてゲリラ戦を指導したのは、ドゥ・レ・ライの元で修行したヤン・スマッツという元弁護士の若き軍事指導者でした。
スマッツのゲリラ部隊は、ヨハネスブルグ北方のモッダーフォンテン周辺で神出鬼没の戦いを繰り広げイギリス軍を翻弄。オレンジ自由国にも侵入し、英領ケープに住むケープ・ダッチとの合流を目指しました。
スマッツの師匠のドゥ・ラ・レイ将軍もゲリラ戦に打って出、明け方すぐに騎兵をイギリス軍の野営地に突撃させるという方法で成果を上げていました。
総司令官ボータは東トランスヴァールの鉄道線路沿いを中心に攻撃を行い、イギリス軍の補給を脅かしました。
ゲリラ戦の考案者ドゥ・ウェットはオレンジ自由国南端の地ベツーリー付近で民兵を率いて英領ケープのケープ・ダッチとの合流を目指していました。1900年12月、イギリス軍のノックス将軍はドゥ・ウェットの部隊の姿を捉えることに成功するも、ドゥ・ウェットは無事に逃亡しています。
ボーア側がゲリラ戦に打って出たことで、イギリスは女・子ども・老人といったボーア人非戦闘員を強制収容所に収容する作戦を実行しました。これは、ボーアの農村がボーア民兵の隠れ蓑になっているため、ボーアの農村を破壊しないと抵抗活動は終わらないというイギリス軍の判断によるものです。
1901年8月までに約8万人の非戦闘員が収容所に移され、年末には16万人にまでなりました。収容所は電流が走る鉄条網に張り巡らされ、衛生状態は最悪で肺炎などの病気が蔓延。食料は常に不足しており飢餓状態で、死亡率は34.4%にも上りました。
強制収容所の存在はイギリスのジャーナリストによって告発され、人権擁護派はイギリス軍の行為を主に新聞紙面で非難しましたが、政府擁護の立場の人間は「ボーア人の非戦闘員の扱いは正しい」と主張。イギリス国内でもこの戦争に対して懐疑的な意見が出、世論が別れ始めていました。
11. 総力戦へ
1900年後半から本格化したボーアゲリラは、ケープ・コロニーの西部にも侵入し全土で活動を活発化。フランスやドイツからの援助や世界各地からの義勇兵が続々とやってきて、活気に満ちてすらいました。
そんな中、イギリス兵をますます絶望させる出来事が起こります。
1901年1月22日、ヴィクトリア女王が死去しました。
女王は晩年、ボーア戦争の行方末を非常に案じており、新しい年を迎えるにあたり「私はひどく身体が弱り、心の悩みも激しく感じられ、新しい年を悲しい心をもって迎える」と記していました。
女王の死がイギリス兵にいかほどの影響を与えたか定かではありませんが、ボーア側のゲリラ攻撃は日増しに勢いを増し、イギリス兵は防戦一方になり、一日も早い戦争の終結を目指し、「なんでもやる」しかなかったのでした。
イギリス軍はボーア人の非戦闘員を強制収容所にぶち込むことに加えて、焦土戦つまり、農村や農場の焼き払いを実行しました。
農村がゲリラの本拠地になっていたことは事実で、ゲリラを匿い衣食住を提供し、非戦闘員を情報収集に使ったり、時には家に隠れ近づいてきたイギリス軍に銃撃を浴びせたりしました。
多くのイギリス兵は農村焼き払いに賛同し、ボーアゲリラは彼らの家族が焼きだされているのを見かねて戦闘を辞めるだろう、という予測をしていました。当たり前ですが、そんな予測は全く当たらず、激怒したボーア民兵はますます激しくイギリス兵に抵抗するようになり、戦争をさらに泥沼化させることになったのです。
イギリス国内においては焦土戦の採用は物議を醸し、野党自由党からは激しい非難が起こり、ウィンストン・チャーチルも「いやしむべき愚挙」と非難しました。ジャーナリストの中にもイギリス軍の残虐行為を糾弾する人がいて、紙面上で戦争の反対を訴え続けました。
イギリス世論の中には戦争反対の声が増えていきましたが、現場のイギリス兵からすると「国の連中はいかにこの戦争が呪われているか分かっていない」と不満で、どんな手を使ってでも戦争を終わらせないといけないと主張しました。
1901年3月以降、イギリス軍はさらに24万もの援軍を追加。ボーア軍もいよいよ後に引けない状態になってきました。
オレンジ自由国で縦横無尽に暴れまわっていたスマッツ軍は、とうとう英領ケープへの侵入に成功しますが、この時には兵数はわずか340名に減っていました。それでもスマッツ軍は9月17日、イギリス軍第17槍騎兵との戦闘で、死傷者62名を与える一方、スマッツ軍の死傷者はわずかに7名。
長期間のゲリラ戦で磨かれ少数精鋭の部隊となっていたスマッツ軍のケープ侵入はイギリス軍を恐怖に陥れ、多くの人数をスマッツ軍討伐のために割かなくてはなりませんでした。
ボーア側の抵抗はスマッツ軍だけではなく、ドゥ・ラ・レイ、ボータ、ドゥ・ウェットも9月に入り一斉に攻撃を開始しました。特に活躍が目覚ましかったのがボータ軍で、ナタールに侵攻しイギリス軍のユベール・ゴフ中佐の騎兵隊285名と衝突し約20分で半数の将校を殺し降伏させました。
イギリス軍はボータ軍討伐のために1万6,000名の増援部隊を送ったのですが、討伐するどこから逃げられ、襲撃によって238名のイギリス兵を死傷させ、120名を捕虜にしたのでした。
ボーア軍は1901年9月〜10月にかけて勝利を重ね、兵糧や弾薬の乏しい中でイギリス軍50万を翻弄したのでした。
しかし、イギリス当局はケープ・ダッチの反乱を起こした指導者を処刑し、オランダ系住民への締め付けを強化したこともあり、スマッツやドゥ・ウェットが頼りにしたケープ・ダッチの人々の一斉蜂起は実現せず、多勢に無勢でジリ貧状態になっていくのでした。
12. 懊悩たる戦争の終結
1902年に入っても、50万もの軍勢を投入しているにも関わらず戦争終結の見通しは立ちませんでした。
イギリス国内では陸軍大臣チェンバレンが軍需産業と癒着していたことがリークされると、戦争自体に対する非難が高まり、政権が揺らぎ始めており、一刻も早く戦争を集結させる必要がありました。
一方のボーア側は、戦闘には勝利しているものの、兵糧も弾薬も乏しく、何より兵数が限られており、このまま続けても打開策はないという状態。
そんな中で1902年3月、イギリス軍総司令官キッチナーはトランスヴァール共和国大統領代理シャルク・ブルゲルとオレンジ自由国大統領スタインに対し、「講和」を申し入れました。
4月12日から始まった講和会談では、「イギリスはボーアの両国の独立を一切認めない」「ボーア国民の承諾を得ない限り独立は放棄できない」と従来通りの主張が繰り広げられました。
2回目の会談で「ボーア側が国民大会を開き、休戦条件を検討する」」ということが決まり、5月15日にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の国民会議が開催されました。国民会議では「独立の放棄はしないまでも、イギリスと妥協し、協力関係を結ぶ」という方針で交渉に望むことが決定されました。
交渉委員はボーア軍の将軍たち、ボータ、ドゥ・ラ・レイ、ドゥ・ウェット、スマッツ、ヘルツォーグの5名が選出されました。
5月15日から始まった会談は難航し、一時は交渉決裂の危機に陥るも、キッチナーがスマッツに対し「2年以内にイギリスでは自由党が政権を執るだろう。その時にはおそらく南アフリカのボーア人に対し寛大な処置をとるに違いない」と秘密裏に囁いたことがきっかけで、ボーア側の態度が軟化し、講和の成立にこぎつけました。
講和の要点は以下の通り。
トランスヴァール、オレンジ両州は直轄植民地としてイギリスの統治下に入る。ただしできるだけ早い時期に立憲自治体を許す
降伏または基準した両市民は個人的自由および財産を剥奪されない
軍法会議に付せられるべき反逆行為を除いて、刑罰・課税そのほかすべての報復を行わない
両州の学校および裁判所にて、アフリカーンス語の使用を認める
原住民に対する選挙権許与の問題は、自治政体設置後に決定せられること
両州市民に対し、戦費負担のための特別課税を行わないこと
独立を放棄した代償として300万ポンドを支出し、追加300万ポンドを低利で貸し付ける
結局、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国は「消滅」することになり、2年7ヶ月の戦闘を戦ってきたボーア人たちの中には、怒りを露わにする者も多くいました。
この戦争の犠牲者は以下の通り。
イギリス:戦死6,000名 負傷死・戦病死16,000 負傷23,000
ボーア:戦死6,000 病死20,000
イギリスは2つの国を滅ぼすのに死者2万2千という多大な犠牲と、2億2,300万ポンドという莫大なカネを使ったのでした。
この戦争によって得をしたのは、イギリス系の鉱山資本家と軍需資本家のみ。資本家は世論を焚き付けて好戦的な雰囲気を煽るのみで自ら血を流すことはせず、彼らを富ますために大英帝国の国民が多く死に、戦費は国民の血税から賄われたのです。
またこの戦争でもっとも被害を受けたのはボーア人と原住民。多数の人が死に、開拓した農場や土地は壊滅的な破壊を受けたのでした。
まとめ
20世紀前半に起こった「ベトナム」ことボーア戦争についてまとめました。
イギリス資本家の強欲、帝国の慢心、そしてなまじ成功を治めただけに引くに引けなくなっていくボーア側の抵抗。
20世紀の国民同士の総力戦の兆しのようなものが、この戦争では見て取れます。非戦闘員を巻き込む焦土戦、住民の強制収容所への収監、組織的なゲリラ戦。
南アフリカの地で起きた悲劇を、20世紀ではなぜ繰り返してしまい、そして我々は今でも続けてしまっているのでしょうか。
参考文献
ボーア戦争 岡倉登志 山川出版社
有料マガジン公開しました!
はてなブログで公開していたブログの傑作選をnoteでマガジンにしました。
1記事あたり10円でお安くなっています。ぜひお求めくださいませ。