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昭和経済史③国家統制経済の構築

昭和経済史の第3回目は、アジア太平洋戦争直前の経済です。

前回では高橋是清の積極財政で世界恐慌と金解禁の混乱から脱出し、様々な産業や技術が発展していったものの、軍部の台頭により経済活動と国民の活動が次第に抑制されていく流れをまとめました。

今回は戦時体制という緊急事態時にどのような経済体制がとられていたかと、国民生活はどのようなものだったかをまとめていきます。


1.経済統制・国家総動員体制へ

1937年7月、盧溝橋事件での日中両軍の衝突をきっかけに日本は華北に戦線を拡大し、日中戦争に突入していきました。
もともと日本は経済ブーストのために満州を切り取ったわけですが、実は資源量は想定量よりも全く十分ではなく、石炭や鉄鉱石、塩、羊毛、綿花などを華北で獲得したいという思いが軍部や一部の政財界にありました

日本軍と対峙する中国軍

日本軍としては中国軍を痛烈に叩いたらすぐに白旗があがり、華北を勢力圏に入れられるという甘い見通しがあったのですが、中国の反日・抗日意識は高まっており、中国軍は激しく抵抗し戦争は泥沼化していきました。この日本軍の見通しの甘さは改善されず、ずるずるとアジア太平洋戦争に突入していくことになります。

戦争開始から2ヶ月後の1937年9月の臨時議会で、臨時資金調整法、輸出入品等臨時措置法という2つの法律が制定されます。1918年にすでに制定されていた軍需工業動員法を含め「戦時統制3法」と呼ばれ、これにより経済統制が急速に強まることになります。

臨時資金調整法

企業の設立や設備の新設、合併や資本増加などにも政府の許可が必要で、政府が資金を統制できる法律です。これを適応すると、軍需に関係のない産業に資金が流れるのを阻止し、資本を軍需用のみに投入することができます。

輸出入品等臨時措置法

政府が特定の物資の輸入を制限・禁止したり、国内での製造を制限・禁止したりすることができる法律です。これを適応すると、綿や鉄などの物資で民用の製品を製造することを禁止し、軍需用だけに使うことができるようになります。

軍需工業動員法

戦争になったら工場や鉱山などの設備を軍が接収して使うことができるという法律です。これはそのままですが、適応されると重要物資を生産する工場が際限なく軍に没収され、軍需用物資の生産を強制されます。

1937年10月には「企画院」という役所が設立されます。軍需工業動員法による物資受給計画をつくる「資源局」と、重要産業五カ年計画の実現を目指す「企画庁」が合併した組織で、戦時経済の基本計画である「物資動員計画」の作成が主な役割でした。

その企画院が主導でつくった法律が「国家総動員法」です。これは戦争遂行にあたって必要とされる人的資源・物的資源を如何様にでも統制できます。

対象は、生産、金融、運輸、通信、教育、研究などあらゆるジャンルで、物資の生産、価格の統制、船舶や鉄道の使用、言論統制、教育や研究の内容、土地や家財の利用、金融機関の資金の使い道への指導、会社の利益や資本金の制限などなど、ありとあらゆる事柄を国の命令を国民や法人に対し課すことができるというヤバすぎる法律です。

これ以降も、物資統制や生活物資統制、銀行等の資金統制、会社経理統制、電力国家統制といった統制令が相次いで出されていきます。

政財界も黙っていたわけではなく、一部の政治家が国家総動員法に反対したり、銀行の貸付や株式の配当制限をしようとした時に財界が猛烈に反対したりなどしますが、陸軍が強引に押し通してしまったのです。

国民の視点からするととんでもない話ですが、陸軍の視点にたつと「こうでもしないと俺たちだけじゃなくお前たちも死ぬんだぜ?死ぬのと生活が苦しくなるのどっちがマシか選べよ?」となります。

国際的に孤立し自力で大戦争を戦わないといけない中で、外貨を獲得するために必要な物資を生産し、軍需物資の生産や運用に必要な材料を輸入し、限られた生産能力をフル活用して自力で軍需物資を生産していく必要があるわけです。そのためには国民生活を犠牲にし、すべてのリソースを軍需に振り分けないと無理だという判断があったわけです。

ただ、そうなるように戦争を仕向けていったのは軍部なので、お前が始めた物語だろ?お前が責任取れよと言いたくなりますが。

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