なぜロシア人はキリスト教を受け入れたのか
キエフ公国のウラジミール大公がルーシにイスラム教を取り入れることを良しとせず、キリスト教(正教)を受け入れたきっかけとなる有名なお話があります。
ウラジミール大公の元にあるムスリムが現れ、多神教信仰を棄ててイスラム教に帰依するように訴えた。その教えは大変魅力的で、大公は乗り気だったが、ムスリムになったら「豚と酒が禁止される」ことを聞いてこう言った。
「ルーシは酒を飲むことが楽しみなのだ。酒なしには生きている甲斐がないのだよ…」
そうしてウラジミール大公はイスラム教ではなく、酒が許される正教の導入を決定したのだった。
実はこれ以外にもウラジミール大公と様々な宗教使者のエピソードが色々あり、どれも半ばネタじみて作り話っぽい感じで、本当かどうか分かりません。
ルーシ国家は伝統的に南のアッバース朝との中継交易で栄えていたため、イスラム教徒多くの接触があったので、ムスリム国家となっていても不思議はなかったのですが、最終的にはギリシア正教を取り入れてキリスト教国家となり現在に至っています。
その理由は、ビザンティン帝国との経済的な結びつき及び首都コンスタンティノープルの圧倒的な求心力のためでした。
1. ロシア人の交易ルート
古代ロシアの支配層は武装商人で、当時の交易とは商業活動と略奪が一緒になったようなもので、交渉によって手に入れられない場合は実力で奪い取りにかかるという荒っぽいものでした。
古代からロシアの人々はドニエプル川を下って黒海を抜け、コンスタンティノープルへ交易に訪れていたそうで、「ロシア原初年代記」や「続テオファネス年代記」など、ロシア人がコンスタンティノープルに遠征したり、町を荒らしたという記述が見られます。
商人たちの旅の出発点は現在のウクライナ・キエフ。春になると各地から丸木舟売りがキエフにやってくる。商人たちは船売りから船を買い取り、改良したり商品を載せたりして、6月ごろからドニエプル川を下る。7月下旬ごろにコンスタンティノープルに到着し、商品を売ったり仕入れたりして過ごし、秋頃に再び船に乗ってキエフに帰っていく。
ただしこの遠征はかなり危険を伴うもので、ドニエプル川を下る途中、現在のドニエブロペドロフスク周辺には無数の瀬があり、通交するにはかなり手間取るものでした。
以下は現在の地図で、現在はかなり整備されていると思われます。きっと昔は船が下れないほどの浅瀬がずっと続いていたのでしょう。
この難所があるため、ロシア人の交易はボルガ川を下ってカスピ海に抜けてアッバース朝と交易を行う「ボルガ・ルート」がメインでした。ロシア人は特産の毛皮を抱えて南下し、ムスリムの銀貨を求めていました。
874年ごろ、ロシア人がコンスタンティノープルにやってきて、両国間の平和条約の締結とキエフへの大司教の派遣を依頼しています。その前後でロシアへのキリスト教徒の普及が始まったと考えられます。
しかしまもなくヴァリャーグ(ヴァイキング)の王オレグのキエフ征服があり、ビザンツ=ロシアの平和的関係は崩れ、またロシアへのキリスト教導入は延期されることになります。
キエフを征服したオレグは、907年にコンスタンティノープルに遠征して譲歩を引き出し、同年と911年に「ルーシ・ビザンツ条約」を成立させました。これにより、ロシア人のビザンツでの商業活動の規定がなされ、ビザンツ領内に6ヶ月の滞在が許され、しかも関税も撤廃され取引量の制限を受けず、帰国するロシア人に食料や資材まで提供されるという、かなりロシア人にとって魅力的な条件が設定されたのでした。
2. 通商関係の発展
ルーシ・ビザンツ条約によってビザンツとの交易が急速に発展し、キエフの町は対ビザンツ交易都市としての重要性を増していきました。
ビザンツとロシアの交易が拡大したのは条約の効果だけでなく、他にもいくつか要因があります。
まず、この頃にはコンスタンティノープル自体も都市として拡大し一大消費地になり、魅力的なマーケットとなっていたこと。
また、オレグの征服戦争により多数の奴隷を確保でき、ビザンツへのメインの輸出品が毛皮でなく、需要が高い上に、他国に高額転売できる「スラブの奴隷」になったこと。
前述のドニエプル川の瀬も、商品が自分の足で歩いてくれ船も運んでくれるので、商人の手間がグッと省けたというのも、奴隷貿易拡大の背景があります。
対するビザンツは、主に絹織物やワイン、貴金属などの奢侈品を売っていました。これまた、キエフ公国では特権層や有力者層に高く売れたため、商人はこぞって買い求めたのでした。
941年、キエフ大公イーゴリ1世は再びコンスタンティノープルへ遠征。944年に再び条約を結んでいます。どうやら遠征軍は敗れたようで、この時の条約によってロシア商人の特権は失われ、キエフ大公が任命し特許状を持った商人のみが貿易を許されるように制度が変えられました。
以前はロシア商人の貿易額は大したことなく、特権を与えていてもビザンツ側の懐は痛まなかったのですが、貿易量が急騰したことで何らか制限をかけざるをえなかったことが、今回の遠征のきっかけであるようです。
キエフ大公は特許状を商人に付与することで、商人が持ち帰る奢侈品を独占でき、これはキエフ大公の財源になり、かつ国内や近隣の有力者に配布することで求心力を高めるためにも役立ちました。貿易の独占により、国家統合と威信を高めることに成功したわけです。
3. ロシアのキリスト教化
907年・911年の条約の宣誓の時は、ビザンツ側は十字架にキスをし、ロシア側は雷神ペルーンに宣誓をしました。しかし、944年にはロシア側にも十字架にキスをする者がおり、キリスト教化が徐々に進行していました。
特に王族やエグゼクティブ層のキリスト教化が進んでおり、イーゴリの妃オリガも夫の死後にキリスト教に帰依しています。都会的で洗練されたコンスタンティノープルの物品への憧れがきっとあったでしょう。
イーゴリ1世の跡を継いだ子のスヴャトスラフ1世は、戦争に明け暮れ蛮勇を誇る「旧き良き武人」タイプの王で、当然伝統的なロシアの神様、雷神ペルーンや家畜の神ヴォロスを崇拝し、支配層にも伝統に帰るように強制しました。
しかし、キリスト教化の流れは止めることができませんでした。
その大きな理由は、やはり魅力的な対ビザンツ貿易。
前王イーゴリの妃オリガは、多数の近親者・使節・通訳の他に多数の商人を引き連れてコンスタンティノープルを訪問し、ビザンツ皇帝と謁見。交流を深めることで、さらなる交易の拡大が期待したのです。実際、スヴャトスラフの遠征で多数の奴隷を獲得しており、対ビザンツ交易は拡大する一方でした。
スヴャトスラフ自身は伝統的な神に帰依していましたが、対ビザンツ交易の重要性は認識していたようです。彼は対イスラム貿易の要所であったハザール汗国の都イティルを占領するもこの町を破壊。一方でブルガリアに攻め込み、キエフ公国の都をドナウ河口近くのペレヤスラヴェッツに移そうと試みています。
結局スヴャトスラフによる遷都計画は、ビザンツ皇帝ヨハネス1世の遠征により敗れてしまいます。しかしドニエプル川を経由した貿易自体は継続されました。
スラブ奴隷の転売はビザンツにも大きな利益をもたらしていたと思われます。
そのスヴャトスラフはビザンツ遠征の帰り道に、ドニエプル川の瀬を通過中、遊牧民ペチュネグ人に襲われ戦死してしまいました。
彼のあとを継いだキエフ大公ウラジミール1世は、王として初めてキリスト教徒に改宗し、以降ロシアはキリスト教徒の国となったのでした。
まとめ
ロシアがキリスト教を受け入れたのは、一にも二にも、交易のためでした。
ビザンツ側もロシア人が運んでくる奴隷は喉から手が出るほど欲しい商品だったので、ある意味WIN-WINの関係にあったと言えるかもしれません。
ビザンツと同じキリスト教徒になった場合のメリットは非常に大きく、それは魅力的なビザンツの奢侈品を何が何でも手に入れたいという、圧倒的な物欲でありました。
その奢侈品の中にビザンツのワインもあったので、「正教徒になれば酒が飲める」という冒頭のお話もあながち間違いではないのかもしれませんが。
その後もビザンツとロシアの良好な関係は続きますが、1453年にオスマン・トルコによってコンスタンティノープルが占領されてしまいます。ロシア人は「いまや正統なローマを引き継ぐのはモスクワしかない」と考え、モスクワを「第三のローマ」と自称するに至ったのでした。
参考文献
岩波講座 世界歴史 7 ヨーロッパの誕生 - 都市コンスタンティノープル 井上浩一
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