ブルガリアの歴史
ブルガリアと聞いて何を思い浮かべますか?
ヨーグルトくらいじゃないでしょうか。
こと歴史になると、ほとんど何もしらない人が多いのではないかと思います。
ブルガリアはかつて、西はイオニア海、東は黒海、北はモラヴィアまでを支配する一大帝国を築き、ビザンティンとも台頭に渡り合った誇り高き歴史を持ちます。
1. トラキア人の王国
ブルガリアの土地で活躍した民族で、文献に残る古い民族がトラキア人です。
トラキア人は単一の民族ではなく複数の部族の連合体で、セルディ、メディ、オドリュサイ、ダキア、ゲタイ、フリュギアなど50以上の部族に分かれていました。
ギリシアの歴史家ヘロドトスは「トラキア人がインド人についで世界最大の民族であり、彼らが統一されれば最強の民族になるが、それが不可能なため弱い」と記しています。
トラキア人は紀元前12世紀ごろから鉄器の使用を始め、温暖な気候と肥沃な大地に恵まれた南東バルカンで農業生産力を拡大させ、南のギリシア植民市との交易を通じて、紀元前6世紀ごろから国家形成が始まりました。
オデリュサイ、フリュギア、ダキア、ゲタイといった部族は国家を建て、ギリシアやペルシア、ローマと覇権を巡って戦っていくことになります。
オデリュサイ王国
紀元前5世紀に勃興したオデリュサイ王国は、王による専制君主制を採り強力な騎馬軍団を持ち、周辺のトラキア諸部族を征服。国王テレス一世とその息子スパラドコスは、スキタイやギリシア植民市と交易関係や貢納関係を結び、国力を充実させました。
ペロポネソス戦争ではオデリュサイ王国はアテネの同盟者として参戦。混乱に乗じて西方への拡大を目指すも、マケドニア遠征に失敗し、さらにトリバッリ人との戦いに敗れ国王シータルケースは殺害されてしまいました。
次の国王セウテス一世の時代に王国はエーゲ海沿岸のアブデラからドナウ川にまで拡大し最盛期を迎えますが、この時代から王国は権力抗争によって分裂し、紀元前341年にマケドニア王フィリッポス2世によって征服されました。
その後、フィリッポス2世の息子アレクサンドロス大王の時代にトラキアの全領土はマケドニアに征服されます。
このマケドニアによる支配に抵抗し、セウテス三世やゲタイ人の首長ドロミカイテスらによってトラキア部族大同盟が作られマケドニアに抵抗するも、同時期にケルト人のトラキア侵入が発生。ケルト人はトラキア南部にティレを首都とする王国を築くも、トラキア人の抵抗によって紀元前212年〜紀元前211年ごろに滅亡しました。
その後トラキア人は部族間の抗争が相次ぎ、ローマ帝国の支配に入ることになります。
ローマはアドリア海沿岸のイリュリア人海賊征伐に端を発し、断続的なバルカンへの軍事遠征で領土を拡大していきました。
紀元前148年にマケドニア王国は敗れ「マケドニア属州」として領土に組み込まれ、トラキア諸部族も紀元後44年〜46年に「モエシア」と「トラキア」の2つの属州に組み込まれました。
モエシアの北に位置するダキア(現在のルーマニア)は帝国のドナウ国境に位置し、北方異民族との戦いの最前線で、不安定な支配が続いていたため、101年にトラヤヌス帝によるダキア遠征が実施され、106年にダキア属州を成立させます。しかし、3世紀後半からゲルマン諸部族の侵入が激しくなり、271年にはローマはダキアから撤退することになります。
ローマ支配下の都市建設や大規模植民、ローマ市民権付与などで、トラキア諸部族は急速にローマ化していきました。4世紀になると首都ローマは内乱や異民族侵入により機能を果たさなくなり、皇帝コンスタンティヌスはビザンティウムへの遷都を実施。ここにおいて、トラキアを含むバルカンは帝国の首都の後背地として食料供給地としての重要性が増し、穀物や果実の大規模な増産が求められました。
しかし異民族の侵入は進み、後にこの地方の支配者となるブルガール族もこの時期に東よりやってくることになります。
2. ブルガールの襲来
最初にバルカン半島に侵入したのは、テオドリック王率いる東ゴート族でした。東ゴートは食料と戦利品を求めてバルカンを略奪して周りますが、488年にイタリア半島方面に向かっていきました。
次にやってきたのが、遊牧民族ブルガール族です。ブルガール族はチュルク系とするのが定説ですが、スキタイ系という説もあります。
ブルガール族は現在の西シベリア周辺を故郷とし、493年にバルカンに侵入して以来、たびたび国境を侵犯し略奪を行っています。
この時期は東方の遊牧民族のバルカン侵入が相次いだ時代で、その他にもクトリグール族やウティグール族の侵入(両方共ブルガールの一派の説あり)や、アヴァール族の侵入も発生します。アヴァールはビザンツ帝国と同盟し、クトリグールやウティグールといった遊牧諸部族を征服し、ゲルマン系ランゴバルド族をハンガリー盆地から排除し、アヴァール・カガン国を成立させました。
バルカンがアヴァール・カガン国によって支配される中で、バルカンへのスラブ人の侵入が進んでいきます。スラブ人はアヴァールの配下、または単独で南部のマケドニア、パンノニア、バルカン西部、サヴァ川上流などに住み着き、現在のセルビア、モンテネグロ、スロヴェニア、クロアチア、マケドニアなどのバルカンのスラブ諸国の大本になっていきます。
一方、先住のトラキア人やイリュリア人などは山岳地帯に逃げ、ルーマニア人(ヴラフ人)やアルバニア人となっていきます。
3. ブルガリア帝国の成立
ブルガール族は長い間アヴァール・カガン国に服属していましたが、アヴァールは西方のフランク王国のカール大帝の遠征によって弱体化していきます。
アヴァールの弱体化に乗じて、ブルガールは8世紀前半に独立して、黒海北岸に部族連合国家「大ブルガリア」を建国しました。その土地は現在のウクライナ南部付近で、今のブルガリアの領土とは全然違います。
初代君主にはドゥロ氏族の王クブラトが擁立され、遊牧民族の君主「汗」を名乗り、635年にビザンツ帝国に使者を送り同盟を結びました。
しかし、クブラトの死後ハザール・カガン国によって大ブルガリアは征服されてしまいます。その後ハザール・カガンの支配を逃れた一派によって、バルカン半島とヴォルガ川中流域を領土とする新たな国家ドナウ・ブルガール・カン国とヴォルガ・ブルガール国、通称「第一次ブルガリア帝国」が建国されました。
クブラトの次男コトラグは、大ブルガリア崩壊後に北東に逃げ、ヴォルガ川中流域にヴォルガ・ブルガール国を建てました。(上記図の②)ヴォルガ・ブルガールはアッバース朝と通商関係を結びヴォルガ川の交易を支配して栄えますが、13世紀前半にモンゴル軍によって征服されました。
一方、三男のアスパルフはドナウ河口付近に拠点を拓き(上記図の①)、先住のスラブ人を従えてたびたびビザンツ帝国に侵入。度重なるブルガールの侵入に業を煮やしたビザンツは、680年にコンスタンティヌス4世率いるブルガール征伐軍を組織しますが、皇帝が戦場で病に倒れ指揮が乱れ、アスパルフの軍はビザンツ軍を散々打ち破って南下し、一気に黒海沿岸の港町ヴァルナにまで進出。681年にビザンツ帝国はブルガールと領土割譲と貢納金の支払いを約束する和平条約を結びました。
ここにおいて、アスパルフはドナウ・ブルガール・カン国(ブルガリア)を建国。現在のブルガリア、ルーマニア東部の広大な領土を支配下に置き、現在のブルガリアの礎となる領土を獲得しました。
支配者であるブルガールは国の上層部を占め、被支配者であるスラブ人は農業に従事していましたが、次第に数で優るスラブ人によってブルガールは同化されていき、スラブの国になっていきます。
なお、大ブルガリア崩壊時に一部のブルガールの一派は、パンノニア(ハンガリー平原)やマケドニアに流れ着き、これが後のブルガリアの征服戦争につながっていきます(上記図の③④)。
4. 帝国の発展と没落
アスパルフの後継者テルヴェルは、ビザンツ皇帝ユスティニアヌスの帝位簒奪に協力したことで「カエサル」の爵位を賜るなど、ビザンツとの関係は揺るぎないものになっていました。
しかしテルヴェルの死後、内紛が起きこれまで王族だったドゥロ氏が排除され、代わりに8世紀後半からクルム氏が王族に就くようになります。クルム一世はブルガールの兄弟たちが住むアヴァール・カガン国やビザンツ領マケドニアに遠征し領土を拡大させました。
強大化するブルガリアを打倒すべく、811年にビザンツ皇帝ニキフォロス一世はブルガリアの首都プリスカに遠征し占領。略奪や焼き討ちを行いブルガリア王クルム一世を動転させますが、帰途スタラ・プルニナでブルガリア軍の夜襲を受け軍は壊滅。皇帝も戦死し、遠征は無残な失敗に終わりました。
なお、この時クルム一世は皇帝ニキフォロス一世の頭蓋骨に銀を張って「髑髏盃」にし、支配下にあるスラブの部族長たちに酒を振る舞ったとされています。敵将の頭蓋骨を髑髏盃にするのは遊牧民族の伝統で、それを受けて飲むことは盟約を交わすことを意味しました。
クルム一世はその後、トラキアに侵入し略奪を重ねながらビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの城壁に達しますが、この時は城壁を突破できずに撤退。クルム一世はその後、次なるコンスタンティノープル遠征の準備中に死亡しました。
クルム一世の死後に王位についたオムルタグは、ビザンツ帝国との和平条約を締結し、国境線の確定などを行い、先代が拡大した王国の内政の安定化を図りました。
伝統的にブルガリア国家機構は国王である「汗」が、政治と軍事の指導者となり同時に神タングラ(シャーマニズムの神テングリ)の神官でもありました。重要事項はクリルタイ(会議)によって決定されました。オムルタグはこのような遊牧民族の伝統的な統治方法や文化を重視し、王国のビザンツ化につながるキリスト教を禁止しましたが、実際にブルガリアの宮廷内にもキリスト教徒は多数存在していました。
オムルタグの長男エンラヴォタもキリスト教に帰依したため後に処刑されています。
しかしフランク王国とビザンツ帝国という二大キリスト教国家に挟まれ、しかも領土が拡がったブルガリア国内に於いて、キリスト教を禁じながら中央集権化を目指すというこれまでの方策だと無理が出てくるようになってきました。
852年に王位についたボリス一世は、東フランク王国ルートヴィヒ二世に接触し、フランク教会からキリスト教を受容しようとしました。
しかし、その後にビザンツ帝国のブルガリア侵攻によって敗れたボリス一世は、「フランク王国との関係解消と、ビザンツの手によるキリスト教の受容」を飲まされることになってしまいました。
864年、ボリス一世はビザンツ皇帝ミカイル三世の手によってキリスト教徒となり、洗礼名ミカイルを賜りました。
この結果、建前上ブルガリア王はビザンツ皇帝の子ということになったのです。
しかしボリス一世は無条件でビザンツの軍門に降ったわけではなく、直ちに独立教会の設立とスラブ語典礼の導入を定め、コンスタンティノープルからもローマからも独立した「ブルガリア教会」を設立。宗教面でもブルガリアの独立を維持したのでした。
ボリス一世の死後、ブルガリアはビザンツ帝国に対する強硬策に転じ、以降30年以上続く戦争の時代に突入します。
ボリス一世の息子シメオンは、894年にビザンツに先制攻撃を加え、ビザンツ軍に圧勝。マケドニアにまで侵攻し、領土をアドリア海にまで広げました。
シメオンはその後、コンスタンティノープルを何度も攻め、征服に次ぐ征服を重ね死亡しました。彼の治世でブルガリアの領土は最大になりますが、ビザンツとの交易が閉じられたため国庫は火の車でした。
次の国王ペタル一世は、逼迫する国庫を立て直すべくビザンツ帝国との関係改善に乗り出し、ロマネス一世の孫娘マリアと結婚しビザンツ皇帝の親族となりました。
この国王の親ビザンツ政策に地方の貴族層は反発し独立志向を高め、また国の保護を受けた教会勢力が力を付け、国家の土台が揺らぎ始めていきます。
ブルガリアの弱体化を見たビザンツ帝国は、キエフ大公国のスヴャトスラフ一世(ウラジミール一世の父)と同盟を結び、キエフ・ルーシに北からブルガリアを攻めさせました。
キエフ・ルーシ軍はブルガリア軍を圧倒。スヴャトスラフ一世はブルガリアを征服し、ドナウ下流の町ペレヤスラヴェツに居を構え、本格的なバルカン進出を試みていたそうです。
キエフ・ルーシの勢力拡大を警戒するビザンツ軍は、一転してキエフ・ルーシと対決。971年にプレスラフを占領してブルガリア皇帝ボリス二世と弟のロマンを捕らえ、東ブルガリアを占領してしまいます。
残った西ブルガリアもしばらくは独立を維持するも、「ブルガリア人殺し(ブルガロクトノス)」の異名を持つヴァシリオス二世の時代に征服され、1018年までにブルガリア帝国は滅亡。ビザンツ帝国に併合されてしまいました。
5. 帝国の再興・第二次ブルガリア帝国
ブルガリアを征服したビザンツ皇帝ヴァシリオス二世は、貴族や高位聖職者に対して既得権益の安堵を行ったため、従来の支配層はビザンツへ恭順しました。
しかしヴァシリオス二世が死亡すると、ビザンツはブルガリアへの支配を強硬なものとし、ブルガリア教会の主教をギリシア人に任命したり、農民の租税の金納を義務付けたり、支配層から一般農民までギリシア化とビザンツ従属化に伴う困窮化が進み、大規模な民衆反乱が相次ぐようになりました。
これにはビザンツ本国の事情が絡んでいます。
貨幣経済の進行により領主の大土地所有が進み中央権力が弱体化。それに伴い財政が悪化し、皇帝が短期間で何度も入れ替わり、ノルマンやセルジュク朝が侵入し領土が侵犯され、帝国全体が危機の時代に突入していました。
1185年、ブルガリアのトドルとアセンの兄弟が独立運動を起こし、ブルガリア民衆と遊牧民クマン人の武力を借りてビザンツ軍を破り、1187年に首都をタルノヴォに置き独立を達成しました。通称「第二次ブルガリア帝国」です。
兄弟二人の末弟カロヤンは、ビザンツ帝国を模範とした国造りを目指し活発な対外政策を展開しました。
1204年、第四回十字軍がビザンツ帝国を占領して傀儡国家であるラテン帝国を建てると、この機会に乗じてカロヤンは勢力拡大を企てます。
ブルガリア軍はアドリアノープル付近でラテン帝国軍と戦い、フランクの軍勢に大勝し皇帝ボードワン一世を処刑。その後マケドニアに侵入し大部分を占領しました。
次の国王イヴァン・アセン二世は拡がった国境の防衛力を強化し、始めて貨幣を鋳造し経済発展にも尽くしました。また、1230年には領内に侵入したテッサロニキ皇帝セオドロス・コムニノスの軍勢を破り、そのまま皇帝と重臣たちを捕虜にし帝国を滅ぼし、テッサロニキをも支配下に置きました。イヴァン・アセン二世の時代にブルガリアは最盛期を迎え、かつてのシメオン以上の領土を獲得し自他共に認める大国の地位にのし上がったのでした。
6. 帝国の混乱・オスマン帝国による支配の始まり
偉大なる皇帝イヴァン・アセン二世の死後、40年の間に6人の皇帝が即位するなど中央は混乱し、帝国の力は弱まっていきます。
中央の弱体化に伴い、教会勢力や封建領主が力をつけて大勢力になる一方で、農民の農奴化が進み階級格差の拡大が進んでいきました。力をつけた封建領主は都市の商工業にも手を伸ばし都市住民も封建的重圧を受けるようになり、北ヨーロッパやイタリアで発達したような商人の自由な貿易やギルドの発達などが起こりませんでした。
このように内部の矛盾が露呈し不満が高まる中で、ビザンツ帝国はブルガリアに遠征し黒海沿岸諸都市を支配下に置き、ハンガリーやキプチャク・カンも北部を侵蝕。
農民反乱も相次ぎ、1277年には豚飼いの農民イヴァイロが反乱に成功し、コンスタンティン・アセン帝を敗死させ、妃のマリアと結婚して帝位に就くなど混迷を極めていきます。
イヴァイロの失脚後、北西部ヴィデン地方の領主シシュマン氏が力をつけ、1323年にミハイル・シシュマンがブルガリア皇帝に就き、シシュマン朝を開きました。
ミハイル・シシュマンはブルガリア帝国の栄光を取り戻すべく、ビザンツ帝国遠征やセルビア遠征など積極的な遠征で帝国を拡大させようとするも、セルビアとの戦いに敗れ戦死。
次王にはミハイル・シシュマンの甥イヴァン・アレクサンデルが就き、混乱を抑え一時的にブルガリアの内政を安定させますが、バルカン半島に進出してきたオスマン帝国によって南ブルガリアが占領され、ビザンツ帝国にも黒海沿岸を占領されてしまいます。
次の王イヴァン・シシュマンは、セルビアやボスニア王と連携し、キリスト教同盟を結んで反オスマンの軍を起こしますが、1388年にムラト一世の臣下に加わります。
その後、ハンガリー王ジグムンドが反オスマンの十字軍を結成すると、オスマン勢力を排除する最後の機会と見たブルガリアはジグムンドの軍に加わりますが、史上名高いニコポリスの戦いでオスマン帝国バヤズィト一世の軍に圧殺されてしまいます。
この敗北で第二次ブルガリア帝国は完全にオスマン帝国に組み込まれ、次にブルガリアが独立を迎えるのは、20世紀に入ってからになります。
7. オスマン支配下でのブルガリア
オスマン帝国は初期は遊牧民族の連合国家でしたが、多様な民族や地域を支配していくに従ってオスマン家の専制支配へと移行していきます。
これを可能にしたのが、職業軍人(スィパーヒー)を元にした「ティマール制」でした。
スルタンと直接契約した地方有力者であるスィパーヒーは、戦時にはスルタンの旗の元に集合して戦い、勝った暁にはより大きな封土を得られる。その富を原資にしてさらに軍事を拡大し再び戦で富を獲得していく、というのが基本サイクルでした。平時は地方行政に責任を持ち、農民の保護と治安維持を行う必要もありました。基本的に農地は国有地であり、スィパーヒーは王に代わって封土の徴税を担いましたが、ごまかしや不正は許されなかった上、世襲も認められていませんでした。
オスマン帝国の治世下ではキリスト教会の存在は認められ、東方正教会、ユダヤ教徒、アルメニア教徒など宗教ごとにミッレト(宗教共同体)に組織され、貢納の代わりに信仰の自由が認められました。
そのため、オスマン治世下でのバルカンはイスラムへと強制的な改宗が行われたわけではなく、地元有力者のスィパーヒーの元で宗教を基盤としたコミュニティが存在し、昔ながらの生活が営まれ多様な文化が共存していました。
オスマン帝国の拡大は16世紀半ばに最盛期を迎え、スレイマン大帝の第一次ウィーン包囲とサファヴィー朝遠征という大規模な遠征で軍事費が増大し、帝国の拡大にも限界が来て新たな土地を獲得できずスィパーヒーも困窮し没落していくこととなります。
そこで台頭したのが地元の名士・アーヤーン層。昔から続く土着の豪族だった彼らは建前上の支配者であるスィパーヒーと結びつき、世襲の土地所有体系を作り上げて農民に対する二重支配を行いました。
この支配構造の中で農民たちは大土地所有者所属の小作人の立場に転落し、「従来のスィパーヒーによる統治の再来」をスルタンに求める運動が盛んになっていきました。
このような帝国の変化を受けて16世紀末にはバルカンでいくつかキリスト教徒による反オスマン反乱が起こっています。
ワラキアのミハイ勇敢公はオスマン帝国とポーランド・オーストリアの力関係を利用してモルドヴァ・トランシルヴァニアを制圧し一時的にルーマニアの領土を回復し、同時期にブルガリアでもタルノヴォでドゥブロヴニク商人が反オスマンの反乱を起こし、シシュマンの末裔と称するシシュマン三世が擁立されますが、オスマン軍に敗れ反乱は失敗に終わっています。
帝国拡大路線の行き詰まりとともに、キリスト教社会にも変化が起き始めました。ヨーロッパとの通商拡大によって、キリスト教徒商人が商業の仲介者として支配的な地位を占めるようになり、バルカン各地の地場産業への投資と、輸出港テッサロニキからヨーロッパ各地への貿易によって、政治的経済的にも大きな力を得るようになっていました。
キリスト教徒の商人は地元の名望家となり地方行政に携わると同時に、進んだヨーロッパの啓蒙思想に触れることで、次第にナショナリズムと民族の自立に目覚めるようになっていきます。
18世紀からヨーロッパのオスマン帝国への軍事的優位性は確定的なものとなり、ハンガリーが1699年にカルロヴィッツ条約でキリスト教諸国の元に帰ると、キリスト教徒の反乱が相次ぐようになります。
また、地方の名望家となっていたキリスト教徒の地元有力者は中央政府から半ば独立した勢力圏を持つようになり、ブルガリアでも北部ルセを拠点としたアレムダル・ムスタファ・パシャ、西部のヴィディンを中心に勢力を誇ったパスヴォンオウル・オスマン・パシャなど地方が武力と経済力を持ち中央に対し力を行使するようになっていきました。
一方で、ブルガリアを含むバルカン東部では没落した戦士や農民が馬賊や山賊となり、「本来自分たちが得るべき富を外に持ち出す」として都市や商業ネットワークを破壊し地域経済にダメージを与えました。
8. 民族主義運動の高まり
18世紀以来、ブルガリアでは東方正教ミッレト内でのギリシア化の圧力が強まっていました。ギリシャは1832年にオスマン帝国より独立を果たしており、ギリシャ民族主義的な観点から正教会からスラブ的なものを除去してギリシア化させ、正教会ミッレトのギリシャ支配を正当化させようとしました。
ブリガリア人教区民はこれに反発し、ブルガリア人が多数の教区にはブルガリア人の府主教を任命する要求を掲げますが、1830年に制定されたミッレト憲法にはブルガリア人の要求が盛り込まれておらずブルガリア人は反発。1860年に世界総主教の権威を否定し、ブルガリア人の教会の独立を宣言しました。
オスマン政府は1870年にブルガリア総主教代理座を正式に承認し、ここにおいてブルガリア人は「ブルガリア総主教」という存在を介して自らのアイデンティティを確認したため、宗教の共通性と国家と民族が統合されてみなされるようになっていきました。
同時期に、ブルガリア民族主義を求める運動も起こっていました。
代表的な人物がパイシー・ヒランダルスキで、彼は著作「スラヴ・ブルガリア史」の中で中世ブルガリア帝国を賛美し、同時に強烈な反ギリシアを打ち出してブルガリア人は自身の歴史と文化に誇りを持つべきであると主張しました。
しかし当時のブルガリアの名望家はオスマン帝国と物理的な距離が近いということも関係し、帝国の繁栄こそが自分たちの権益の安定にも繋がるとして、パイシーが主張するブルガリア民族解放への貢献は乏しいものがありました。
一方でブルガリア国外では、ゲオルギ・ラコフスキーが「民族解放のためにはオスマン支配の打倒が不可欠」として、ブルガリア解放のための武装闘争を掲げました。
ラコフフキーはベオグラードでセルビアの援助を受けブルガリア人連隊を創設するもベオグラードを追われ、次いでブカレストに拠点を移し秘密結社「ブルガリア秘密中央委員会」を結成し、武装ゲリラをブルガリア領内に送るも、はかばかしい戦果は上げられませんでした。
ラコフスキーの死後、リュベン・カラヴェロフ、ヴァシル・レフスキ、フリスト・ボテフの三人によってブルガリア解放の闘争は引き継がれ、ブルガリア民衆の啓蒙活動や抵抗のための組織づくりを行うも、オスマン当局によって逮捕され処刑されてしまいます。
この間、ゲオルギ・ベンコフスキによってブルガリア各地に一斉蜂起のための組織づくりが進んでいました。
彼らはボスニア危機の勃発を好機ととらえ1867年4月にコプリフシュティツァで武装闘争が開始されるも、オスマン当局は非正規軍を投入して残虐にこれを鎮圧。ヨーロッパ各国から非難の的となり、ブルガリア民族問題は世界的な関心事となっていきます。
9. ブルガリア復興運動
19世紀後半からバルカン諸民族の独立運動は、オスマン帝国の中央集権的な近代化政策に反発し独自の文化を維持したまま近代化を求める地域の政治的運動と、バルカン半島に影響力を持とうとするロシアの南下政策、それに対抗する英仏の策略とが連動し、一触即発の中で政治的枠組みが模索されていた時期でした。
クリミア戦争によってオスマン帝国はロシアに勝利を収めるも、英仏に多大な借金を背負い経済的な従属国に転じ、多額の負債は国庫を圧迫していきました。
バルカン諸民族はオスマン政府に対する反乱を繰り広げ、ブルガリアでも東北部ヴィディン地方でムスリム領主の土地支配に対するキリスト教徒の反乱が展開されました。
1875年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナで大規模な農民反乱が発生し、バルカン各地でこれに呼応した蜂起が発生します。1876年春にはブルガリアでも一斉蜂起が準備されます。
1876年6月、スラブ人の一斉蜂起を受けてセルビアとモンテネグロが支援のためにオスマン帝国に宣戦を布告し、次いで1877年4月にロシアが宣戦布告。露土戦争が勃発しました。
露土戦争にはブルガリア義勇兵が参戦しており、シプカ峠の戦いでは5000のブルガリア兵が4万のオスマン兵相手に獅子奮迅の活躍を見せ峠を守り抜き、ロシア軍の勝利に多大な貢献をしました。
オスマン軍はプレヴェン要塞でロシアに頑強に抵抗するも、12月にロシアによって攻略され、翌年1月にはロシア軍は首都イスタンブールに迫りました。3月、ロシアに有利な状況で講和が開かれ、サン・ステファノ条約が締結されます。
サン・ステファノ条約の骨子は以下の通り。
アルメニア、アナトリア東部のロシアへの割譲
ボスニア・ヘルツェゴビナへの自治権の付与
ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認
ブルガリアへの自治権の付与
サン・ステファノ条約によって、ブルガリアはマケドニアを含む広大な土地を手に入れ、中世ブルガリア帝国の領土を彷彿とさせる大公国への道が開かれようとしていました。
しかし、これによりロシアが地中海に拠点を持つことを危惧するイギリスとオーストリア=ハンガリーはこの条約に反発し、ドイツ皇帝ビスマルクを仲介に各国の利害を調整するために1878年6月〜7月にベルリンで国際会議が開かれました。
この結果締結されたベルリン条約では、大ブルガリアは三分割され、ドナウ沿岸にブルガリア公国の建国は認められましたが、広大なマケドニアの地はオスマン帝国直轄領として残され、東ルメリアはキリスト教徒の総督の元で行政自治権を与えられた土地とされました。
10. 大国ブルガリア復活への道
ベルリン会議の結果を受け、既存の領土を元に国家建設が推進されました。
後見人のロシアの支援の元、急ぎ憲法が作られ1879年4月に憲法が採択され、議会と内閣が成立し、ロシア皇帝一家からアレクサンデル・バッテンベルクをブルガリア公に向かい入れました。
ロシアから来たブルガリア公と後見人であるロシア政府は、自由主義的なブルガリア憲法と議会に不満を持っており、専制的制度への改定を目論んだため議会とたびたび衝突しました。
ベルリン条約によってオスマン帝国領となった東ルメリ州では、ブルガリア住民が公国との統合を求めて活動をおこなっており、1885年2月にはザハリ・ストヤノフを中心にブルガリア秘密中央革命委員会が結成され、東ルメリ州の民兵を組織し武装蜂起を結構。州都プロヴデフを含む州の主要地域が制圧されました。
これを受けてブルガリア公アレクサンダルは東ルメリ州のブルガリア公国併合を宣言します。
これに反発したのが、ブルガリアの大国化を恐れるセルビアとギリシア。
かねてより宗教問題で険悪な中にあったセルビアはこれを機にブルガリアに宣戦布告し、軍を率いてブルガリア領内に侵攻しました。しかしブルガリア軍はソフィア近郊のスリヴニツァでセルビア軍を散々に打ち負かし、逃げるセルビア軍を追い首とばかりに追いかけセルビア領内に攻め込む有様でした。
ここにおいてオーストリア・ハンガリーが介入に入り、和平条約が締結されました。
この戦争ではブルガリア国内では「セルビアに対する勝利」と受け止められましたが、きっかけとなった東ルメリ州は「ブルガリア公の総督権を認める」程度に留め置かれ、統合が認められなかったため、ブルガリア国内では失望とブルガリア公アレクサンダルへの非難が噴出。
その後親露派将校のクーデターによりアレクサンダルは退位を余儀なくされました。
その後、政治の実権は首相のステファン・スタンボロフが掌握。
自由主義者で反ロシアのスタンボロフは、アレクサンダル退位を契機としてブルガリアのロシアへの影響力を削ぐためにロシアと国交断絶を決行。親オーストリア・ハンガリー、ドイツ政策を採り国内の近代化を進めようとしました。 スタンボロフは空位となっているブルガリア公に、ザクセンのコーブル家出身のフェルディナントを向かい入れました。
ブルガリア公に就いたフェルディナンドはスタンボロフの影響力を嫌い、1894年に首相より解任してしまいました。これにより実権を握ったフェルディナンドは再びロシアに接近。ロシアの圧力でオスマン帝国にブルガリアを自治公国に昇格させました。
一方で国内では1897年の凶作で農民の暴動が盛んになり、農民政治組織はフェルディナンドの個人独裁体制が批判されるようになりました。
1908年、オスマントルコで青年トルコ革命が勃発し中央政府が混乱すると、フェルディナンドはブルガリアの独立を宣言。自ら「ツァーリ(皇帝)」を名乗り、国の名前も「ブルガリア帝国」に変更しました。
農民同盟を始めとする共和主義者は、皇帝の専制に反発し対決姿勢を強めていきます。
11. マケドニア問題→バルカン戦争→第一次世界大戦
19世紀後半、ギリシャ、セルビア、ブルガリアの間で争点になっていたのが、「マケドニア問題」です。
マケドニアは北はセルビア国境のスコピエから、南は古くからの港テッサロニキを抱え、農業に適した肥沃な土地が広がる地域。古代はアレクサンドロス大王のマケドニア王国が勢力を持った地域ですが、中世ではセルビアやブルガリアなどいくつもの国の支配を受けました。また、この地域の住民の多くは南スラヴ人ですが、オスマン帝国時代にユダヤ人やアルバニア人など多様な民族が混在していきます。
帝国末期の1870年、オスマン政府が総主教代理座の設置を認め、ブルガリア正教会の教区が形成されると、「総主教系はギリシア人」、「総主教代理系はブルガリア人」と認識されるようになっていきました。
当時のマケドニアのスラヴ人のアイデンティティは極めて曖昧で、
「自分たちの祖先はギリシア人で、今はブルガリア人だけど、セルビア人になってもさして問題はない」
というような意識であったようです。
そのため、ブルガリア、セルビア、ギリシャはマケドニアの地域を自国に組み込もうと、教会や学校の設立、文化活動を通じて影響力を高めようとしました。
ブルガリアはマケドニアのスラヴ人の言語がブルガリア語と近いことを根拠に、セルビアは聖者の祝祭日の慣習を根拠に、ギリシャはマケドニアの人々をスラヴ化されたギリシャ人だとして、それぞれマケドニアの領有権を主張しました。
ブルガリアはかつての大国・ブルガリア帝国を再現するにはマケドニアの領有は必然であり、絶対に妥協してはならない問題だったのですが、これが20世紀のブルガリアの運命を大きく変えていくことになります。
1908年の青年トルコ革命によりバルカン諸国は自由や自治が認められるものと期待しますが、その実支配地域のトルコ化が強力に推進されたため、バルカン諸国は反発し対オスマンのバルカン同盟が模索されるようになりました。
マケドニア問題で険悪な中にあったセルビアとブルガリアも、ロシアを仲介にして1911年3月に友好同盟を結び、5月にはギリシャと、またモンテネグロとも同盟が結ばれます。
1911年10月にモンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告したことをきっかけに、ブルガリア、ギリシャ、セルビアも宣戦布告。各国軍は各地でオスマン軍を打ち破り、ブルガリア軍も首都イスタンブールの間近に迫りました。12月には早くも列強が介入し休戦状態になり、ロンドンで講和条約が結ばれました。
講和条約ではセルビアとギリシャはアルバニアの併合を期待していましたが、講和条約によりアルバニアの独立が認められたため、両国はマケドニアの領有を主張。セルビアとギリシャは結託し、両国でマケドニアを二分割した国境線を引いたためブルガリアは反発します。
1912年6月、マケドニアの展開するブルガリア軍がセルビア軍とギリシャ軍に発砲したことで第二次バルカン戦争が勃発しました。
ブルガリアはセルビアとギリシャだけでなく、オスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアからも多方面侵攻を受けました。北から攻め上がってきたルーマニア軍が首都ソフィアに迫ると、ブルガリア政府はたまらず降伏。わずか1ヶ月ほどで敗北してしまいました。
第二次バルカン戦争の講和条約によりマケドニアは三分割され、それぞれ「ヴァルダル・マケドニア」「ピリン・マケドニア」「エーゲ・マケドニア」と命名されました。
ブルガリアが領有したのはピリン山脈を含む東部マケドニア、いわゆる「ピリン・マケドニア」で、豊かな農業地域や都市を含む「ヴァルダル・マケドニア」はセルビア、テッサロニキを含む沿岸地域「エーゲ・マケドニア」はギリシャが獲得。
さらにブルガリアは南ドブルジャをルーマニアに割譲することになり、民族主義が高まるブルガリアにおいてはこの戦争の敗北は屈辱で、「失った領土の回復」を求める声が高まっていくことになりました。
第二次バルカン戦争の結果は、この後の第一次世界対戦に直接つながっていきます。
1914年6月28日、サラエヴォ訪問中だったオーストリア=ハンガリー皇太子フランツ・フェルディナントがセルビア青年に暗殺される、いわゆる「サラエヴォ事件」をきっかけに各国は第一次世界大戦に突入していきます。
バルカン諸国は参戦にあたり、三国協商国(イギリス・フランス・ロシア)、中央同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー)のどちらに就くか、条件やライバル国の動向を見据えながら注意深く伺っていました。協商国側はブルガリアに「トラキアとマケドニアの一部の割譲」を申し出ますが、同盟国側はそれに加えて「セルビア領マケドニアの割譲」を打診。これに乗ったブルガリアは、1915年10月に三国協商国に宣戦布告。セルビア王国に侵攻しました。
一方、ギリシャは協商国派と同盟国派に分裂ししばらく中立でしたが、1917年7月に同盟国に宣戦布告。1918年9月に、イギリス軍、イタリア軍、フランス軍、セルビア軍、ギリシャ軍はテッサロニキからマケドニア戦線に大攻勢をかけ、ブルガリア軍は総崩れに。
混乱の中、反乱軍が現れて首都ソフィアに迫り「ラドミル共和国」の設立を宣言。結局この反乱は鎮圧されるも、国王フェルディナントは退位を迫られブルガリアは降伏しました。
この敗北でブルガリアはヌイイ条約を結び、エーゲ海への港デデアガチを含む西トラキアをギリシャに、西部国境地域の4拠点を新国家ユーゴスラヴィアに、南ドブルジャをルーマニアに割譲する羽目になり、多額の賠償金も課せられることになりました。
またも屈辱的な敗戦の憂き目に会い、ブルガリア国内では厭戦機運が高まり戦前から反戦を主張していた左派(農民同盟、共産党)が支持を高めることになりました。
12. 第二次世界大戦への道
退位したフェルディナントに代わり息子のボリス三世が国王となり、1919年の選挙では農民同盟の指導者アレクサンダル・スタンボリースキが首相に就任。スタンボリースキは土地改革を実行し農民への土地の再分配を行ったり、教育改革を行ったりなど、ブルガリアの社会インフラの整備に多大な貢献をしました。
スタンボリースキは根っからの共和主義者で南スラヴ連邦の支持者でもあり、戦後はバルカン諸国との関係改善に努めました。
第一次世界大戦で敗れ領土を割譲させられたユーゴスラヴィアやギリシャに対しても宥和的であったため、「大ブルガリア」の復活を目指し第一次世界大戦の報復を主張する民族主義者からは恨みを買っていました。
1923年6月9日、軍隊内部の秘密組織「将校連盟」と「国民調和」によってクーデターが実行され、郷里に戻っていたスタンボリースキは捕らえられ処刑されました。
クーデター後、ボリス三世は指導者のアレクサンダル・ツァンコフを首相に承認し、農民同盟と共産党を内閣から締め出し、その他の政党と合同で「民主調和」を結成しました。
あせった共産党はコミンテルンの支持の元、北西部で武装蜂起を敢行しますがすぐに鎮圧され、これを口実にツァンコフは農民同盟と共産党を大弾圧します。
共産党は非合法化されますが、以降も国王独裁に抵抗し「祖国戦線」などを結成し抵抗を続けていくことになります。
ツァンコフ政権の発足後、ピリン・マケドニア内部の武装勢力「内部マケドニア革命組織」は事実上ブルガリア南西部ペトリチを支配下に置き、南スラヴ連邦派の政治家を暗殺するなどのテロ行為を続けました。
社会不安が高まったブルガリアでは、1931年の選挙で民主党と農民同盟右派が勝利しマリノフが首相に就きますが内政・外交面での行き詰まりを打開できず、1934年5月19日に再び「将校連盟」によるクーデターが勃発。国王ボリス三世はキモン・ゲオルギエフを首班とする「5月19日体制」を承認しました。
ゲオルギエフ政権は危機の打開のため、議会の解散、労働組合の禁止、新聞を検閲下に置くなどし、国王ボリス三世をトップに据えた独裁体制を構築。外交的にはナチス・ドイツとファシスト・イタリアに接近していきました。
1933年1月に成立したドイツのヒトラー政権は、ヴェルサイユ体制の打倒を掲げ国際連盟から脱退し、翌年からシャハト計画に従って東欧・バルカン諸国との経済強化に乗り出しました。この計画では、世界恐慌以降農産物の価格が暴落し大打撃を受けた東欧・バルカン諸国の農作物をドイツが買い上げ、代わりにドイツ製工業製品を売るというもので、農作物の買い手がなく経済的に困窮していたバルカン諸国はこれを歓迎。経済的にドイツへの依存を強めていくことになります。
ドイツのバルカンへの干渉を受けフランスは、東欧・バルカン同盟諸国の地域相互協力機構の整備に着手していきます。1934年2月に成立したバルカン協商は、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、トルコ、ギリシャで締結されますが、これらの国々も次第にフランスと距離を置き始め、ユーゴはドイツへ、ルーアニアは英仏独との等距離外交に舵を切っていく。
以降、英仏とドイツとのバルカンにおける影響力維持の争いは激しさを増していき、英仏はバルカン協商の維持を目指し、ドイツはハンガリー・ユーゴ・ブルガリアの枢軸国ブロックの形成を呼びかけました。
1939年8月、ドイツとソ連が不可侵条約を結び、翌月ポーランドに侵攻して占領。翌年6月にはフランスが降伏し、ドイツ軍のイギリスへの侵攻が間近になってくると、今度はバルカン半島はソ連とドイツとの間でぶんどり合戦が始まっていきます。
1940年6月にはソ連はルーマニア北部ベッサラビアの割譲をルーマニアに要求。要求には不可侵条約に含まれていなかったブコヴィナの割譲も含まれていたため、ドイツは抗議し交渉の場で火花を散らしました。結局北ブコヴィナの割譲が認められ、ベッサラビアはソ連に割譲されます。これに乗じてブルガリアもドイツに要求を出して第一次世界大戦で割譲させられた南ドブルジャの返還を要求。ルーマニアはわずか2ヶ月で国土の1/3以上を失うことになりました。
ルーマニア分割で対立を深めたドイツとソ連は、1940年11月からブルガリアを巡って対立することになります。
ヒトラーはボリス三世をドイツに招き、エーゲ・マケドニアの割譲を条件に、日独伊三国軍事同盟へ加盟を迫りました。これに対し、ソ連はブルガリアへの経済援助を申し出、トラキア地方の供与を条件にソ連軍の黒海軍事基地の使用を迫りました。
この他にもトルコもブルガリアに対し防衛条約の締結を持ちかけられ、イタリアからもエーゲ・マケドニアの割譲を条件にギリシャへの侵攻を呼びかけられるなど、各国がブルガリアとの連携を模索していました。
そんな中、マリタ作戦の発令でドイツ軍のブルガリアへの重要性は増し、ドイツ軍は数千人のドイツ軍関係者をブルガリアへ送り込み、対ギリシャ攻撃の準備を始めました。
これに対しソ連は激しく抗議し、ブルガリアにソ連への協力を呼びかけました。アメリカもブルガリアに対し中立を呼びかけますが、ブルガリア国内では「ドイツ軍の到来と連携は避けられそうになく、強力なドイツ軍が敵となるよりは、味方として旧領土回復の頼みとするほうが得策ではないか」という意見が多数を占めるようになっていきました。ドイツによる世論工作もあったかもしれません。こうしてブルガリアは1941年3月1日に三国防共協定へ加盟したのでした。
1941年3月、ユーゴスラヴィアで軍部クーデターが起こり英米への接近が図られると、ドイツは直ちにユーゴスラビアに軍事侵攻を決定。イタリア、ハンガリー、ブルガリアの枢軸国軍が4方から攻め入りました。
これによりユーゴスラヴィアは解体され、セルビアのネディッチ傀儡政権以外は全て他国に分割統治させられることになります。ブルガリアはこれにより「ヴァルダル・マケドニア」を獲得しました(下図の薄い茶色の地域)。
独ソ戦が始まると、ルーマニア、ハンガリー、スロヴァキア、クロアチアといった国も同時にソ連に宣戦布告するも、ブルガリアは親ソ派が多かったため対ソ戦への参戦は免除されました。しかし、国内では左派によるパルチザンが盛んで、共産党の武装組織「ズヴェノ」、農民同盟左派からなる「祖国戦線」などが国内で武装解放闘争を展開しました。
スターリングラード以降、ソ連軍が攻勢に転ずると、ブルガリア国内では英米との講和を呼びかける声が高まり、1943年春からアメリカとの和平交渉を開始しました。
アメリカはブルガリアの無条件降伏を求めますが、ブルガリアはヴァルダル・マケドニアと南ドブルジャを含む領土に固執したため交渉は破談。
1944年1月から英米軍によるブルガリア空爆が始まり、ソ連も圧力をかけ始めました。
その結果、ブルガリア政府は枢軸国からの離脱を決定。ドイツに対し全軍の撤兵を要求し、セルビアとマケドニアから駐屯軍を撤退させ、さらには共和主義者のムラヴィエフを首班とする救国政府を樹立させて英米との降伏交渉に当たろうとしました。
そんな中、ソ連が突如としてブルガリアに宣戦布告。
それに呼応して祖国戦線がクーデターを起こし権力を奪取し、ソ連のブルガリア駐留を手引しました。このようにしてブルガリアはソ連の占領下に置かれ、やがて共産圏の中に組み込まれていくことになります。
13. 社会主義体制下のブルガリア
戦争終結前に左派によるクーデターが行われたことでブルガリアでは右派勢力の排除が徹底的に進められ、共産党は民主勢力や農民同盟左派すら排除して議会を独占し、1946年3月に元コミンテルン議長ゲオルギ・ディミトロフを首相とする「ブルガリア人民民主主義共和国」の成立が宣言されました。以降野党に対する弾圧は一層激しくなり、1948年までに実質的な共産党による一党独裁体制が成立しました。
ソ連の独裁者スターリンは、自国のみならず影響下にある国々の指導者に自身の息のかかった人物を就けていきます。これにより「東欧スターリン体制」と呼ばれる強固な体制が構築されていくことになりました。
ブルガリアの「小スターリン」は、ヴルコ・チェルヴェンコフという男で、1925年からソ連に亡命した筋金入りの親ソ派でした。スターリンの権力を背景に、チェルヴェンコフは農業の集団化や工業化、宗教の弾圧が進行し、ソ連型の国家建設が急ピッチで進められました。
しかし1953年3月にスターリンが死亡すると、ブルガリア共産党内でさしたる支持基盤がなかったチェルヴェンコフは影響力が低下し、トドル・ジフコフが代わって共産党書記長に就任しました。
チェルヴェンコフはその後も首相の座に留まるも、中国の大躍進政策を取り入れた「ブルガリア版大躍進」が大失敗に終わると、ジフコフはチェルヴェンコフを全てのポストから解任してジフコフ独裁体制を固めました。
ジフコフの権力奪取はソ連政界とも連動しており、ジフコフの後ろ盾はフルシチョフでした。ブルガリアはジフコフ体制の元で最もソ連に親密な国となり、1960年代から主に中欧の国々で反ソ連暴動が相次いだのに対し、ブルガリアではほとんどそれらしい反ソ連機運が高まることはありませんでした。
ブルガリア人はスラヴ民族としてのソ連への親密感があり、また独立闘争を支援してくれたという恩義に加え、直接の軍事的脅威がなかったこと、また農業国ブルガリアが工業化を推進するにあたってはソ連の援助が何よりも必要だったためと思われます。
ソ連の支援の元で、ブルガリアは軽工業や食品工業の発展に努めて順調に経済成長を達成しました。農民には借地が奨励されローンも組むことができ、農業生産向上の政策も積極的に打ち出されました。また、検閲はあるものの極端な表現の規制はなかったし、1970年代のブルガリアは比較的安定した国となっていました。
1970年末から東側諸国は一様に経済危機に陥り、それは大親分のソ連も例外ではありませんでした。ソ連ではペレストロイカにより市場の競争原理の導入、複数政党制の導入、民族による自治の付与などへ舵を切っていきました。
ソ連の不況をまともに食らったのがブルガリア。ソ連の多大な援助の元経済発展を続けてきましたが、ソ連が石油価格を引き上げ庶民の生活を圧迫。エネルギーが不足し食料生産も低調になり、食料を求めて店頭には長蛇の列ができ、人々の不満は高まっていきました。
1988年末より独立労働組合や少数民族団体などの市民団体が組織され、閉塞感を打破する動きが高まると、東ドイツのホーネッカー辞任・ベルリンの壁崩壊といった出来事に連動し、共産党の改革派がクーデターを引き起こしジフコフを辞任させ、外務大臣ムラデノフが当書記長に就任しました。
その後1990年2月にブルガリア共産党は「ブルガリア社会党」と自主的に名称を変更。その年の6月の選挙で自由選挙が実施され、国名も「ブルガリア共和国」に変更されました。
まとめ
かなり長くなってしまいましたが、古代から現代までのブルガリアの歴史をまとめてみました。
近代以降のブルガリアは、民族主義の高まりとともに中世ブルガリア帝国の復興を目指して領土の回復に固執し、故にたびたび選択を誤って戦争に敗北し続け、第二次世界大戦でも領土に固執するあまり、アメリカとの平和裏の終戦を見逃したりしています。
共産圏に入って以降は、1970年代まではソ連の支援の元順調に経済発展をしており、かつての野心的なブルガリアは見る影もありませんが、「ちょうどよい発展途上国」といった様相でした。
ソ連崩壊後は市場経済に意向し、1996年には年500%という超ハイパーインフレを経験するも、現在は持ち直し健全な財政運営を行っているようです。
ブルガリアは歴史的にその時その時に関係が深い国と従属変数的な関係にあり、中世はフランク王国やビザンツ帝国、近世だとオスマン帝国、戦後はソ連と一蓮托生的な関係にありました。
現在はと言えば、ドイツやイタリアといったEU圏と親密な関係にあるようです。
しかしEUの危機とロシアの復活が進む中で、ブルガリアは果たしてどのような道で生き残りを模索していくのでしょうか。
参考文献
「バルカン史 (世界各国史) 」 柴宜弘 山川出版社 1998年10月01日初版
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