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学校が再開して〜来るべき明日に絶え間なく備える

先週、こどもの小学校と保育が再開。

決まった時間に起き、決められた持ち物を準備し、決められた時間に登校し、決まった場所へ送り迎へし、こなすべき家事をこなし、週末まで止まることのない明日に備える。

とにもかくにも生活を安定させることに力を注ぐ。

戻ってきた日常

日常が戻りつつありますね、なんていうけれど、
日常が戻ってきた、という言葉はしっくりこない。

「戻るべき日常なんてあったのか」と感じるときがある。

もうすでに、わたしたちは新しい生活の価値を見出していた。
(”たち”と言っていいのかはわからないけど)

たとえば、生活していくために家族の中でうまれた協力関係。

たとえば、今まで当たり前にあって気づかなかった関係性のありがたさ。
浮き彫りになった社会とのつながりの線。

「休校・休園、意外と良い時間だったんだよね〜」
子どもが家にいるという大変さとともに、惜しむ声も聞こえてくる。

その感覚に、とても共感している。
上手く言えないけれど。

学校が与えてくれるもの

「規則正しさ」という意味では、学校は存分に与えてくれている。

みんながやるべきもの、も与えてくれる。
無自覚にその恩恵を受けとってきたことに気づく。

確かに、大きな変化が続いた今、「生活には”慣れ”が必要である」と強く感じる。

ある程度、スケジュールが決まっていたほうが子どもも安定する、という話も聞いたことがある。

だけど安定を通り越して息苦しく感じる瞬間がやってくる。
レールから落っこちないようにしなきゃ、足並み乱さないようにしなきゃ、そう無意識で思ってるんだろうか。

主体的に暮らす

もうひとつ、なにか大事にしたいものが今手元からなくなっちゃったような気がしている。

与えられるものがなくなって、初めて形づくられた心がまえのようなもの。

主体的で、協力的で、自分たちで生活をつくっていくぞ、という心がまえのようなもの。

それが休校中に育っていたように思う。

わたしたちは生き方を選べるし、選んでたってことなのか

与えられるものをたくさん受け取ろうとすると、
自由度が下がる。

そして、ふつうに生きていたら、その与えられるものは次から次へとやってくる。
暮らしを規定され、それによって得られる安定や安心(?)、逆に、余白で生まれる価値、とのバランスをとっていく。

大人のテーマだと思っていたけれど、子どもにも通じるテーマかもしれない。

子どもも揺れる今、委ねてみようと思う(自分を犠牲にしない程度に)。
子どものほうがきっと敏感だろう。

学校や保育の箱の中以外に、
子どもが過ごせる場所を、楽しみながら開拓していきたい。

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