学びを止めないってどういうことか
厚労省のHPに出てくるこの言葉、SNSでもたびたび見かける。
この言葉に出会うたび、
焦燥感や、責任、そして小さな迷いを自分のうちに感じる。
なんでだろうか。
今回の休校で、学びを止めないということが簡単ではないことがわかったし、かといって、プリント、タブレット、スマホ、PCで学習すればよいというのにも違和感を覚えている。
本来、学ぶことで何を得るかって言うと、可能性を狭めないということ。
生まれ落ちた環境は生き方に大きく影響するけれど、学ぶことができるというのは、ひとつの可能性。行きたい方向へ動かすための。
日本の識字率の高さは義務教育のおかげときいたことがある。
特に小学生で始まる読み書き算数というのは、学びたいことを学ぶための土台、を作っているのだと思っている。
いきあたりばったりにやる、を一歩深めていく。
まぐれだったものは、感じて、言葉にして初めて、再現したり、工夫をし始めることができる。やりたいことをやって生きていくことは、充実感につながる。
学びは生活にあふれている、というのは、
多くの人が感じていることだろう。
(いくつかの森のようちえんや、自然教育の場を見たことがあるけれど、知識から始める、ではなく体験から学びにつなげるというカリキュラムが多い)
こどもの好奇心、探究心てすごいから、それを原動力として自然科学的なものが体感として得られるってすごい学びだと思う。
学びにつなげるには、基礎的な読み書き算数、それから大人の寄り添いや視野をひろげる声掛けがあるとより深めるきっかけになるんだなというのも感じること。
だけど、それには、見極める力も必要。
何を学ぶべきなのか
そんなこと考えてないで、学校でやってる科目をただプリントかなにかでやらせればいいかもしれないけれど
ここにきて急にできた空白のおかげで考えるようになった。
私は衰退しつつある地方に住んでいてるけれど、
生活の土台が安定していることに驚く。
集落の人達は、文字通り百姓で、野菜味噌醤油、それどころか協力して道すらも作れる(コンクリをうったり)。
一部の友人たちとは、今、土があって作物を育てられるってすごいよねって話や、
病院で見てもらえるのが当たり前でない日が来つつあるから、救急措置は覚えておきたいよね、とかが話題に出たりする。
ひととき前には、タイかどこかの少年が自力で井戸を掘るのが生きる力ってこれだよね、って感じでたくさんリツイートされたりしていた(記憶が曖昧)。
生きていくのに必要な要素で、遠くの他人に委ねているものがある、なくなって初めて当たり前にあったものに気がつく。
学校は安心だけど、受動的になりがち。
もちろん、そんなふうに大きくなった私も今こうして生きているのだけど、
時代の変化の波にのまれたり、たとえ不況のさなかにあっても
まあ、なんとかなるさっていう、精神を育んでいけたら最強だと思う。
今、決断すべきことや、変化に大人自身が追われているけれど、
真っ当に生きていくために、
こどもたちと考える時間にもなったらな、と思う。
学びを止めないことに躍起になってはいけない。
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今日は、娘がオムレツ的なものを作った。
卵を割ってかき混ぜてフライパンに流すだけ。
いつもよりなんだかとてもふわふわだったのでわけをきくと
”マヨネーズを入れた”とのこと。
(私はマヨネーズを多用しないので、自分で工夫をしたのに驚いた)
「なんでふわふわになったんだろうねえ」なんて一言かけてみるくらいはできる(食べるのに夢中で今回は言えなかった)