6月11日(火) たくさんの決めること
365日の日記を書いている(ちょっと、インチキして今日は木曜日だけど火曜日のことを振り返る)
リフォームしている物件があって、
今日はそこの壁紙を選ぶ日だった。
「クロスの見本を、置いておいたので決まったらおしえてください」一週間ほど前に内装屋さんから連絡があり、いよいよ、素敵な場所ができる期待で胸膨らませ、取りに行くと、
入り口付近にあった緑があしらってある爽やかな見本帳は今まで見たどんな紙の束よりも分厚かった。
あんまりにもそれが分厚かったので、
「また今度にしよう」私は一人つぶやいて、Uターンして帰ってきてしまった。持ち帰りもせず。
私は物事を決定するということにけっこう手間暇をかける。
「なんでもいいじゃん」という夫と比べたら、たぶんこだわりは少し強い。(いくつかの選択肢の中から自分が選べるということはすごく大事なことだけど、選択肢が多すぎるととたんに苦痛になる。)
そこで助けを求めることにした。インテリアが好きな友人に声をかけて
あれこれ言いながら一緒に眺めていくうちに
ひっかかるもの、自然に目に止まるもの、いくつかの共通点を持った自分の好みがあることが分かってきた。
ラメが入っているのがいやだ(ラメというものが落ちて身体につくのが好きじゃない)
フワフワモコモコした感触はいやだ(ガリっと爪でひっかけちゃいそうな気がしたから)
そんな感覚的なものに、少しずつ言葉を与えて言く作業は、
自分というものを新たに発見するような楽しさがあった。
私の場合、物事を決めるのは消去法が多い。
***
そういえば、私の父も、よく吟味していた。
家電など買うときに、分厚いカタログをいくつも読んで、蛍光ペンで線をひいていく。パソコンも使って、電話であれやこれや問い合わせもする。
永遠に続くかのように見えたその作業は、今思えば自身を納得させるためだったのだろうし、そのようにして家にやってきた新しいものを父はとても嬉しそうに迎え入れた。
口コミが今ほどなかった時代だったのもあるかもしれない。
だけど、「納得して決定したい」というこの頑固な思いは、父譲りかもしれないなあ、なんて思った。
いつぞやに、「決めることが苦しいんです」と知り合いの片付けコンサルタントの人に話したら「決定することは何かを捨てることですからね」って言ってて、なるほど、と思ったことがある。
そしてこれを書いていて思ったのは、決定後の後味の悪さはもしかしたら、私は捨てた方の良いところをいつまでも見ているせいでもあるのかもしれない。
後悔や失敗をしながらも、手元に残したものを愛せるように、やっぱりまだまだ自分を知る作業は必要なのだな、と感じた一日。
壁紙は膨大で宇宙のようです。
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