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”ちょっと話す” ができる関係性

夜、布団に入って長女と雑談をした。

彼女が話してくれたのは、明日からの小学校がいやだということ、牛乳が多すぎること、国語の音読がみんなと一緒だと遅すぎること、先生や友達は好きなんだってこと。

牛乳好きだと思ってたよ。
好きだけどぜんぶは多すぎるんだよ。
へえ。


「どう思ってる?」ふだん、ああ、ここは大事なとこだな、理解したいなと思うシーンに限って、彼女は口をつぐんじゃう。

それに対して母であるところのわたしは「言わないとわからないよ」という。(わかってあげれたらいいのにと思うこともある。「もにょもにょ」といって「あ、そうなのね」なんて)
あかちゃんのときは必死で感じ取ろうとしてきた空気感や表情や仕草、
言葉以外のものを感じ取るセンサーは、言葉をすでに獲得してしまった相手に発動するのは、ちょっとだけめんどくさいと思う時もある。

「おなかすいた!ねむい!オムツ気持ち悪い!」くらいならいいんだけど。おおきくなってくるとややこしいんだ(おたがいに。)

聴きたいのにきけない。彼女との間でそんなやりとりが繰り返されてきた。
話してもらえないことは寂しい。言ってもわかってもらえない、と思われてるのかもしれないと思うと親としての自信がなくなったりもする。

全身で素直に甘えてくる妹たちの存在もあって(ほんとうに非言語なコミュニケーションは有無をいわせない)、彼女がゆっくりと話せる環境がなかなかないのもあるだろう。


今日はたまたま疲れ切ったチビふたりが早く寝たから時間がとれた。

雑談によって知れることは多い。その人を構成している要素を知れる。
”ちょっと話す” そんなことが、一緒に暮らすことを少しだけ楽にしたりスムーズにしてくれるような気がする。

小さなきもちを話してもらえる日常を大事にしたい。良いも悪いも受け止めて寄り添いたい。夜の虫の音にまぎれる落ち着いたささやき声からにじみでていたのは聴いてもらいるうれしさと安心感であったように感じられた。

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