予想通り、、
以前多様性に関して記載しことがある。
多様性が溢れ出すと、人間レベルが問われると。
要は成熟した人間社会では多様性は活かせるが、未成熟人間の社会では、多くの問題を起こし社会は混乱に陥ると。
多様性は様々な角度から見てとれます。
例えば経営、、
1プロダクトイノベーション:
対価を得る製品・サービス自体を新たに開発したり、改良を加えたりするもの (多様な人材が異なる分野の知識、経験、価値観を持ち寄ることで、「新しい発想」が生まれます。)
2プロセスイノベーション:
製品・サービスを開発、製造、販売するための手段を新たに開発したり、改良を加えたりするもの(管理部門の効率化を含む) (多様な人材が能力を発揮できる働き方を追求することで、効率性や創造性が高まります。)
3外的評価の向上:
顧客満足度の向上、社会的認知度の向上など (多様な人材を活用していること、及びそこから生まれる成果によって、顧客や市場などからの評価が
高まります。)
4職場内の効果:
社員のモチベーション向上や職場環境の改善など (自身の能力を発揮できる環境が整備されることでモチベーションが高まり、また、働きがいのある職
場に変化していきます。)
お分かりでしょうか?
ダイバーシティ経営は、社員の多様性を高めること自体が目的ではありません。また、福利厚生や CSRの観点のみを直接的な目的とするものでもありません。
言い換えれば、文化における多様性に関しても同じことが言えます。
つまり個人における多様性の価値観を高める事が目的じゃないのです。個人の社会的責任性おける観点のみを目的とはしていないのです。
でも現実は、、個人の価値観に集中し個人の価値観を広げよう!とうたっている方々が多いのです。
個人における価値観多様性を広げ、人間性を広げることは反対ではないですし、できるのならば努力して欲しいと思いますが、多様性社会はそれが目的じゃないと言う事を認知せねばいけないと思います。
そこの認知を間違えると、自己喪失に陥り、且つその環境に対応できるルールなどが無いとなった場合、軋轢を生み出します。
そもそも落ち着いて考えてみてください。
あなたの目の前の環境で多様性が広がり、あなたにとって何か良いことありますか?色んな意見がでて色んな人間が集まり、あぁでもないこうでもないと収集がつかなくなりませんか?
あの人の意見もわかる、こっちの意見もわかる、そっちの気持ちもわかる、で?
で?あなたはどうなんですか?とよく海外で日本人が質問されると「、、、、、」言葉に詰まる方々が多い。
まさに自己喪失の側面です。
周囲を理解しよう、周囲を理解しなきゃ、、と言い聞かせ、努力しているうちに「あなたはどうなんですか?」と直接問われると言葉に詰まる。
まるで思春期の子供のようです。自己確立がなされておらず、今日はこの人明日はあの人の影響を受けながら、徐々に自己確立を行なっている成長段階の人間ようです。社会人にもなって、自己の確率がなされていない人間が、さらに知識だけで多様性を自分の中に創ろうとすれば、余計に自己喪失に陥る。
多様性とは貴方にカメレオンになれと言っているわけではありません。無口な人間、外交的な人間、理論的な人、感情的な人、白人、黒人、男に女に様々な人間が、そのまま存在しえる環境の事を多様性社会と言うのです。
会社内で「より良い労働環境に改善しよう」「働きやすい環境にしよう」とうたった時に、貴方は「コミュ力が大切だ」「お互いを理解しあおう、認め合おう」と意見を述べた時、誰かが「いやいや、その前に残業なしにしよう」、別な人が「性別における決めつけはやめよう」「経営者を取り替えよう」「社員を取り替えよう」「外国人を雇用しよう」「時短労働に切り替えよう」などと様々な意見が飛び出ます。で昔から日本は「じゃぁどうしよう」「この意見はダメだよ」「いや、どの意見も尊重すべきだ」「じゃぁどうすんの?」「難しい問題だよね」と遅々として進まない。
あまりにありふれた、日本の日常の姿が見える。それは多様性社会とは言わない。しかしその中の人間は「相手を尊重している」「いろんな意見を考慮している」つまり多様性があるではないか?と信じている。
多様性社会構築には、大前提として自己確立がなされた成熟した人間社会を要するのである。
机上論で多様性を理解し対応すれば、欧州の移民問題のようになりかねない。良かれと思って弱者を助け、弱者を受け入れ、共に生きようとした時に、ルールも定まりきれていない、労働機会の取り合い、犯罪の増加、など本来移民とは本質の違う問題が多発し、結果土着民は余所者を責め始める。
犯罪も労働機会も本質は移民には関係ない。経済問題であり人種や移民と言った事が問題の本質ではない。
しかし人間は問題の本質をすり替え、常に犯人探しを行い、責める対象を見つけ、攻撃することで従来の集団の輪、和を保とうとする動物である。
この従来の攻め合いの環境を改善することが、多様性社会の目的である。
多様性社会を理解していく、構築していく、時に最も労を求められるのは、人間なのである。嫉妬、妬み、悔しさ、我慢、そういったものを自己管理できる人間が求められてくる。
それが日本国が述べている「生き延びる力」である。
自分が不利にたった時、甘んじて受け入れ他者を責めない。
自分の利益が他者へ分配された時、僻みを持たず喜べる精神。
多くの意見を活かし多様なニーズに対応できる精神の器。
寛容性や協力意識、利他主義と言ったものが個人に要求されてくる。
今日の日本のように「リスク回避」が賢いとされる人間社会では、絶対に構築されない多様性社会である。
リスクを被り、他人に利益を優先させ、常に相手に合わせながらも、自己の確立をしっかりとできる人間。非常に成熟した人間像が求められる。
世界は若者にこのような教育をしている。
他人の利益なしに自分の利益なし、国の利益なしに自分の利益なし、画一的思考には拡張はない、向上と拡張の両面を備えるには我慢を要する、進むということは後退であり、拡張は縮小であり、友好とは敵対であり、善は悪で光は影であると言う現実をどのように協力し合い管理していくのか?
今の日本から見れば絵空事のような、理想論だけにしか聞こえない環境であり、人間像である。
多様性社会とは新たな価値を創造する。新たな結果を作り出す。新たな環境を構築する。そのように結果を想像していき、結果を生み出すことが多様性社会の目的なのである。
寛容であるためには、我がままであれ!