見出し画像

Black Box 3

情報開示のブラックボックス。
今回の伊藤さんの作品で最も多くの方が不思議に感じたのは、なぜ不起訴になったのか?なぜ逮捕が突然中止になったのか?なぜ検察審査会でも不起訴になったのか?そう言った公的機関の決済内容が被害者さえ知り得ない事じゃないですかね?情報開示がなされないと言い切ると正確じゃないですかね?例えば嫌疑不十分で不起訴ですとなれば、「嫌疑不十分=嫌疑が完全に晴れたわけではありませんが、犯人であることや、犯罪の成否を認定する証拠が不十分である場合は嫌疑不十分となります。」と理由を明快に開示してますよねとなりますんもんね。

問題は、どう言った背景や情報を持って、その結論に至ったのか?などの詳細を被害者たちは知りたいですよね。明確な結論だけ告知されても、説明不十分ですってなります。これも言葉の遊び的で個人的には十分理解できてませんが、一応ルールでは不起訴理由の開示を受けたい場合には、検察官に対し、「不起訴処分告知書の申請書」を提出します。 申請を出さない限り、検察官の方から自然に不起訴処分告知書が交付されることはありません。 弁護人を選任していたら、本人が何もしなくても、弁護人が申請してくれます。とネットなどにも記載されてますので、「不起訴の理由は申請があれば、きちんと開示してますよ」って水掛け論になっちゃんでしょう。
で、じゃぁその内容は?となると結局「提出されている証拠及び背景を見ると、起訴に値るす証拠が不十分だからです」となるでしょう。
では更に、どんな証拠が他に必要なんですか?と聞けば「これと、あれと、、、」と指摘されますが、その必要とされている証拠がない、消滅した、などで提出できない。つまり被害側、「申請者の方が証拠を十分に提出できないのに、こちらのせいにしないで下さい」となるでしょうね。延々とこう言ったやり取りが続くだけだと思います。知りたい側はなぜ何故と聞いていき、対して開示する側はこうであぁで回答し、共に間違った事は言ってないのですが、噛み合わない。この問題は、恐らく水掛け論に陥る可能性が高いわけです。ここでも知りたい側の正論と開示する側の正論が両方成立しています。そして嘘をどちらも述べてはいませんので、双方の真実がそれぞれに存在することになります。なので真実を明かせば云々とはいかないケースが多々あるんですよね。


例えば起訴判断の決裁権を被害者も持つとしましょうか?公的機関の一部の人だけじゃなく、被害者も決裁権をもち「この程度の証拠があれば起訴可能です」と被害者が決済できるとします。その場合もし物的証拠がこれ以上出てこないとなった場合どうしましょう?起訴までは被害者の声を尊重しできたとしても、証拠がなければ先へは進めない。では状況証拠がある程度揃っていれば有罪でいいじゃないかとは、これまた単純な話じゃないですよね。裁判は感情や推測だけで決裁をするわけじゃないですから。感情や推測が重きにおかれたら冤罪が多発する可能性が高まります。

悲しいかな現実社会「嘘発見機」はないので、どうしても「物的証拠」「確固たる証拠」と言うものを必要とします。今回の伊藤さんの告白にて学べる1つの点は、常に裁判などの知識を勉強しておき万が一の時に、パニックに陥らず可能なかぎり冷静に対処し、物的証拠を確保できる様訓練や意識を持って生きるって事ですよね。例えそれが難しい事だとしても簡単に「できない」と投げ捨てないで、一人一人が留意しながら生きるって事も大事な事だと思います。避難訓練同様に日頃から証拠確保維持の重要性を認識しておけば、完璧ではありませんが重要な手助けとなる証拠を自分で押さえる事にも繋がりますから、この点は非常に大切だと思います。

それとやはり、情報詳細の透明性の部分では、正誤論的な水掛け論ではなく、やはり建設的且つ被害者保護救済を尊重した、やり取りは必須だと思います。提出された証拠が何故法的に不十分と判断されてしまうのか?証拠不足の時は、本当に他に手立てはないのか?など親身になって情報開示と司法の透明性を打ち出し、強いては司法の信頼を高め被害者たち、もしくは国民が司法への疑いを持たないように努める事も法曹界の責任じゃないでしょうか?実社会では「結局お金持ちや有名人やコネの効く人たちはなんでもできる=不公平」と言う国民感情がある点は、司法に携わる方々には十分認知を深めて頂きたいと願います。
裁判官も警察も皆が皆忘れていけない事は、被害者は専門的知識の欠如で尚且つ助けを求めている傷を負った人たちであることですよね。勿論被害者面した不届な人間もいるのが現実社会です。ドラマのような綺麗事では済まないのが現実社会。困難を伴う対応とは思いますが、それらの親身になった姿勢で救われる方々がいる事を忘れないでほしいなと思います。

今回社会のブラックボックスと言う事で、改めて色々考えてみましたが、人間社会に存在し続けるブラックボックスを解消するのはほぼ不可能でしょう。しかしそれを理由に何もできないという事にもならず、結局一人一人が出来うる事は常日頃行い、各関係者たちは、救済を求めている被害者たちに寄り添って、親身に対応する姿勢を強化して、互いの信頼関係を構築し続ける事も重要だと思います。

そして一番重要な事は、このような悲しい事件を呼び込むような事はせずに、未然に犯罪を防ぐ言動を一人一人がとっていく事です。自由だ権利だと叫ぶのも大切ですが、それによって犯罪を呼び込んだり、余計な不協和音を起こしたりしたら、あまりに幼稚な主張と化します。事が起きてから、制度や現状の問題を議論をし改善する事も勿論大切ですが、その前に「事が起きないように」「未然に犯罪を防ぐ」って事が、最も重要な事だって事を再認識すべきじゃないでしょうか?今回伊藤さんの作品は世界的にも大きな反響を呼んでいます。事件当時の彼女の容姿や言動と、最近のそれらは大きく変化していると見受けられました。新たな第二弾の本も出されたようで、未来へ向かい一歩づつ懸命に生きておられるようです。その姿勢だけでも多くの方々へのパワーとなって、多くの方々が社会に存在し続けるブラックボックスに関心を示し、学び考え声出し強いては行動に起こすようなっていけば、彼女の中に存在するブラックボックスの蓋も開いていくことになるんじゃないかと思います。

映画公開も話題となっており、今度は伊藤さんが社会的正義を盾にとった言動で、別な被害者を生み出しているような話題も見ました。詳細は不明ですが、ジャーナリストの使命、責任、権利など抱えて我武者羅に頑張っている事だと思いますが、小さなすれ違いが大きな傷を生み出す事も多々あります。走りすぎず止まりすぎず、呼吸が楽にできる環境下で、伊藤さん自身が本の中でもおっしゃていた「配慮」「思いやり」というものを忘れずに、人生を楽しんでいただければなぁと思います。



いいなと思ったら応援しよう!