お終いが近い
毎日を鬱の中で生き、それでも未来に期待して生きたいと願う人でも、ある日突然ふと死んでしまう。自らの手によって、人に間違いだと言われるとしてもその世界から逃げる手立てが自死しか思いつかない。周りの人のことなど考えずに、死んだ後のことなんて考えずに、ただふと命に終止符を打つ。それはなんて幸せなことだろう。なんて、羨ましいことか、言葉を尽くしてもこの思いは表せない。
反対に、いつか光が差すとわかっていればどんなにいいだろう。けれどそのために地獄を生きねばならない悲しさよ。
いつか良くなるかもしれないと日々を生きられるほどにもう何も残っていない。もう何も思えない。なにかをしては後悔し、自分の全てが間違っていると考えるこの頭は心は、毎日身体を蝕んでいく。レールに乗れなかった罰だろうか。
やってみたこと全て、上手くいっていないと感じるのは自分のせいだろうか。いいことがあっても瞬間的で、すぐに去ってしまう。ずっと泣くのを我慢しているような喉の詰まりと、もう死んでしまいたいと思うのに生活にしがみついているのが、矛盾していてどうしようもない。
高校生の同級生だったあの子、終止符をうててよかったな。人からは「失敗したんだよ生きたかったんだけど間違えて死んじゃったんだよ」と言われていたけれど、本心で言えば私はあの子が羨ましかった。とてもとても羨ましかった。
毎日を過ごさなくて良くて、嫌な頭の中のぐるぐるともさよならできて、人を好きだとか嫌われているとかもなくて、赦されたようなあの子は、ちっとも可哀想じゃない。
私も赦されたい。
考えても考えても強くならない心
出口が示される訳でもない
眠っていたいのに眠れない身体
疲れきっていくのは心だけで、なのに身体も自由に使えない。どうして心が先に疲れてしまうのか、身体から壊れていけば他の人がみたって壊れているってわかるのに。じゃあ本当は心は壊れていないんじゃないかって思ってみても、感情に殴られ叩かれ疲弊して、過度に人に頼っている現状が正常だとは思えない。
鞭打って動くなら身体を使って時間を過ごしたい。
休憩と呼ばれる無為な時間を過ごすのが、どれほどの苦痛か。無為な時間しか過ごせない自分の存在価値なんて、見いだせるわけが無いじゃないか。どうしたらいいのか、病院の先生は教えてくれないし恋人だって教えてくれないし友人だって家族だって誰だって教えてくれない。
自分で、何とかしなきゃいけない。自分で。
通らなくていいような荒い道を通って、受けなくていい罰を受けて、そこまでして生きなくちゃいけないのか?
死んでしまって、いいんじゃないの。
自分でなんとかした方法が自死じゃどうしてだめなの。
レールに乗らなくても、寝なくても、起きれなくても、人になにか間違ったことを言ってしまうことも、傷つくことも、頑張ることも、笑顔でいることも、涙を我慢することも、無為な時間を這いつくばって過ごすことも、しなくていい。死んでしまったら全部解決するじゃないか。
終わりがもうすぐそこに出口としてある気がする。
さよならの旅なんていらないし、お別れの言葉もいらない。なにもいらないから、終止符が欲しい。