ささやかな医療ミス。あの医師と私、より性格が悪いのは、どちらだろう?
もう、数年前のことだ。
鼻の調子が悪かった。
なんとなく、グズグズしている。
とうとう、駅近の耳鼻科に行くことにした。
その耳鼻科は、医師が二人体制で、父が院長、息子が副院長だった。どちらの医師に当たるか選ぶことはできず、運次第だと後で知った。
そして私が当たったのは、院長だった。
院長は、ちょっと心配になるようなご高齢だが、それだけ経験豊富なのだと思うことにする。
私が鼻の不調を訴えると、院長は、しわがれ声で言ったのだ。
「中国の大気汚染物質がね、こちらのほうまで来るんだよ。
それで、いろんな不調が起きる。炎症とかね。………見せてあげよう」
最後の一言が意味不明だ。何を見せてくれるというのだろうか。
院長の手元のワゴンには、さまざまな金属製の器具があったが、長さ30センチほどの綿棒型の器具が何本もあり、そのうちの数本には、べったりと血がついていた。
院長は、ピンセットでガーゼをつまみ、それを何かの液体に浸した。
「まず、麻酔をかけるからね」
ピンセットのガーゼを、私の左の鼻の穴に押し込んでから、
「15分くらい、そのままで」と言う。
私は診察室に隣接する丸椅子に座って待機することになった。
やがて15分が経ったのだろう、再び診察用の椅子に座る。(歯科医院の椅子と耳鼻科の椅子は、何故、こうも恐ろしいのだろう?)
これから何をされるんだろう? 仕方がないので、腹を括る。
院長がピンセットを私の鼻に差し入れ、ガーゼをつまみ出した。そのとき、そのピンセットの圧力で、鼻の中の「何か」が、喉の奥に押しやられてきて、私はそれを飲み込んでしまった。
「今、何か飲んだんですけど………」
申し出る私。
すると、年配の看護師さんが、怒った声で言った。
「空気でも飲んだんでしょう?」
「でも、あの、なんか、喉をくだっていきました」
すると、突然、院長が怒り出した。
「わにゃにゃ、わにゃわちゃ………」と、何を言っているのか聞き取れなかったが、罵倒されていることだけは分かった。
院長は一方的に喚き続け、それから出ていってしまった。
看護師に、再び丸椅子に座らされた私は、ぽつんと、その場にいるしかなかった。
いっそ待合室に戻してくれたら、そのまま帰ることもできたのだけれど。
やがて、院長が戻ってきた。
今となっては何故だか分からないが、私は「すいませんでした」と、謝った。そうしないと収まらない雰囲気でもあったのだ。院長は頷いたが、「見せてあげよう」という言葉を忘れたのか、あるいは私に見せる気を無くしたらしい。
私は、なんだか適当に薬を処方され、帰されたのだった。
釈然としなかったが、仕方ない。処方された薬を飲んで様子を見るしかないか………。
しかし、その日から私の鼻水がひどくなった。翌朝、目が覚めて枕元を見ると、頭の両側でティッシュが山になっている。寝ぼけながら鼻をかみ続けたらしい。鼻水は透明でなく、ピンク色だった。こんな色の鼻水は見たことがない。
そんな状態が続いた一週間後、何か閃くものがあり、私は思い切り鼻を噛んだ。
ボコっ、という感じで、うっすら血の滲んだ、ビー玉くらいの大きさのガーゼが鼻から出てきた。
第3のガーゼだ。
広げてみると、長さは5センチくらいで、細長くカットされたものだった。
耳鼻科で麻酔薬の滲みたガーゼを鼻に入れられたとき、実はいっぺんに三枚のガーゼが鼻の穴に突っ込まれていたのだ。鼻の中のいちばん手前のガーゼはピンセットで取り去られ、いちばん奥にあったガーゼはその圧力で鼻から喉に押されて飲み込み、真ん中のガーゼが、鼻の中に留まっていたらしい。
これは、放置していいとは思えない。息子さんである副院長に知らせておいたほうがいいだろう。そう思って、耳鼻科に電話して事情を話したが、耳鼻科の受付の人の対応に、驚かされた。
「そういうお話は、来て頂かないと困るんですよね。
今、予約を入れましたから、すぐに来てください」
行く義理はない。
しかし、このままでは中途半端だ。仕方なく片道30分掛けて、耳鼻科に出向いた。すると、そのまま2時間も待たされたのだった。これは酷い。
やっと呼ばれ、診察室に入ると、年齢的に副院長だと思われる医師がいた。
彼は言った。
「今日は、どうされましたか?」
この言葉に、私はぷっつん、キレてしまった。
私は本気で腹が立つと、声が低くなって、話し方もゆっくりになってしまう。
「今日は、診察を受けに来たのではありません」
そう言って、鼻から出てきたガーゼを見せた。
「今朝、鼻から出てきました」
それから、前回の診察の経緯を話してから、言った。
「お薬代は結構です。前回の診察代を返してください」
副院長は、
「そういうことは、できないんです」
と言う。そうでしょうねえ。健康保険を使ってしまっているもんね。手続き上、面倒でしょうねえ。けれど………
「では、どちらに訴えればいいですか?」
やっぱり保健所かな? それとも、市役所にそういう部署はあったかしら、と考える。
「しばらくお待ちください」
副院長が診察室を出て言った。若い女性である看護師さんと私だけが残された。彼女は居心地が悪いだろうなあ、と思うと申し訳なくて、
「なんか、すみませんね」
と、彼女に笑いかけた。
数分後、副院長が戻ってきて、診察代は返すと言った。
「また、なにかあったら、連絡ください」
と、言い添えられた。
受付の人の対応は最悪であった。年配の女性で、電話対応した人に違いない。ぶっきらぼうに、私に前回の診察代を寄越した。
ここで終われば良かったのだけれど。
数日後、私は鼻血を出した。人生で2回目の鼻血である。
貧血で低血圧だから、鼻血など出さない体質なのだ。
考えた末、一応、病院に電話することにした。
今度はすんなりと、副院長が電話に出た。
そして言ったのだ。
「今、カルテを見ているんですけど、もう、ガーゼは入ってないと思います」
そりゃあそうだろう、カルテを見るまでもないはずだ。
「そうですよねー。いくらなんでも、ガーゼ4枚は鼻に入らないでしょうね」
そう言って、電話を切った。がっくりと脱力して、座り込んでしまった。
***
と、ここまでの話は友人にも話している。そこそこウケる。
しかし、ここから先の話は、家族にも話していない。
引かれると思うからだ。(それくらいの理性はある。)
電話を切って、私はしばらく座り込んでいたのだけれど、やがて猛然と腹が立ってきた。私は院長に罵倒されたというのに、誰からも、全く謝罪されていないのだ。
私はもう一度、耳鼻科に電話して、名前を名乗った。
電話に出た受付の人は、以前とは違う若い女性の声だった。私はこの人には何の恨みもないから、不快な思いはさせたくない。なので、明るい声で話を続けた。
「すみません、院長に伝言をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「あ、はい………ちょっとお待ちください。………どうぞ」
彼女はメモを用意した様子だ。
私は、彼女が書き取りやすように、ゆっくりと、クリアな声を出そうと思う。
「よろしいですか?
『人の、鼻の穴に、ガーゼを3枚も、入れやがって。
謝りやがれ』
以上です。すいませんが、よろしくお願いします」
まもなく、折り返し電話がかかってきた。