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両側に谷、目の前に道、
先日、学びと研究について書いた。戦うとか、正義を実現するとか、そういうことを書いた。ところで、今日は少し違うことを書いてみる。
以前、それぞれ違うタイミングで違う人たちから似たようなことを言われた。「あなたの中には水がわき続ける泉みたいなものがあるように見える、美学というかそういうのがあるように見える。それにつぶされないのが凄いと思う。」「あなたは沢山のことを考えているみたいだけど、それにつぶされないのだな。」
あ、これは本筋には関係ないけど、一つ目の言葉をかけてくれた人に、私はあなたの言葉選びがとても好きです、そのような美しい言葉で私を表現してくれてありがとう。
こういわれた時の私が何を話していたのかと言えば、大体いつも細切れにつぶやいてることがまとまって出てきたようなもので、「私は社会的に特権的な立場に生まれて、生きてきた。だからそれを全て使い切って、その特権を特権でなくしたい。それは私の責任、義務、ライフワークだ。」とか、そういうこと。学びと研究の話にも書いたように、今の私にとってその方法の一つが勉強することや研究することで、それが何かに繋がることを信じて、祈っている。
でも人間は多面的だ、どんな人にも他人には見せられないような顔があるのではないか。私もそういう私について、まあ本当にかけないようなことはかけないので、若干書きにくいこと、かも知れないが、あまり話してこなかったことを書いてみる。多分読む人からしたら何がそんなに重大なのかと思う内容だろうし、共感も得られないだろうし、『人間の条件』に並ぶような感動は与えられないだろうし、自意識過剰な大学1年生の自己満足にしかならないだろうし、一部の人からしてみればこいつは特権を与えられてその中でぬくぬく生きてきたのにこんな甘ったれたことを言っているのかとしか思えないだろうけど。
私には、前に書いたような言葉を周りの人から掛けられるときに決まって脳裏に浮かべる絵がある。私だけしか知らない絵。底も見えない真っ暗な谷、それが画面の左右に一つずつ、その間に走る細い一本の、灰色の細かい砂がまばらに散っている道、脇はほとんど90度の谷の壁面、その道を歩く人、私だ。
「つぶされない」と言われることが多いが、確かにそれはそうだろう。私にとって、思考は私をつぶすものではなくて私が落ちていくもの、あるいはあるか分からない谷の底に向かって私が探しに行くものだからだ。
片方の谷は理性、現実、責任、挑戦、努力、もしかしたら可能性や希望もあるかもしれない、そういう谷。でもその谷が明るいと感じられるのは最初のうちだけだ。谷はどこまでいっても谷だから、いつか光はなくなる。
もう片方の谷は逃避、自己破壊的な自由、死、憧れと幻想の谷。これも最初は素敵に見えるけど、素直に落ちれば他の谷と同じように私を飲み込み閉じ込めるだろう。
一つ目の谷についてはわざわざ触れるまでもないだろう、私の投稿とかを見れば大体何の話か分かるだろうから。
では二つ目の谷について話してみる。
私は人間には生まれたくなかった。特にこの時代に生きる人間としては。もっと人間の寿命が短くて、世界は村や大きくても国の中にだけあって、格差はあってもそれは身分制度というものの中にあって、一人の人の人生なんてほとんどの人については対して記憶されるようなものでもない、そういう時だったらまだましだったかな?
この世界は全部ちゃんちゃらおかしい、どんなによく生きても悪く生きても、結局社会やらなんとか主義やら消費やらそういうものから離れられなくて、時間の外に出ようとする人間は死んだも同然。その中で幸せだとか、よりよい人生だとか、平等だとか、正義だとか、どうせみんないなくなるのに?それが早いか遅いか、どうやっていなくなるか、それだけの違いじゃん。そもそも始まりだって自分で決めたわけじゃないのにさ、勝手に始められた人生に、命に、なんでそんな執着するの。どれもこれも永遠じゃない、地球の時間、宇宙の時間からしたら一瞬なのに、その一瞬の中の粒子一個、それの幸せだとか、なんだとか。
人間は自分と自分と血がつながってる数人以外のことには対して関心もない。人が死のうが、国家が消えようが、地球が壊れようが、どうでもいいらしい。SNSの発達で世界が一つになるとか言ってたの誰?残念、人間はそこまで立派じゃないんじゃない?そんな余裕がある人間が大半になるほど、人間が、人間が暮らす世界は良くなってこなかったみたい。人間がよりよく生きられるように知恵を絞ってる人たちがいるけどさ、そんなに人間って大事?この宇宙に人間がいたことは、よかったのかな?
私は私として生まれたくなかった、そう言うことによって多くの人を傷つけて憤慨させてしまうかも知れないと考えなくてはいけない世界に生きていることが嫌だ。曾祖父かそのひとつ前の世代あたりからのし上がってきて長女の私にいたるまでの家系図、社長、官僚、エンジニア、医者、会社員、東大やら東工大やら、私以外ほとんど帰国子女含め海外経験ある人。中学受験のために塾に通った、東京の私立の中高に6年通った、大学受験の塾にも1年通った、それで結局多分もっと努力してそこにたどり着いた人もいるだろうプログラムの名前を書類に載せて国立の大学に入った。
私は構造的不正義の権化のような人間だと思うときがある、それを甘受してきて今の居場所にいる、何一つとして私の力でやったことはない。
というかあったとしてもそう言ってはいけないのだ、私が自分の力でやったことも、そのベースは結局全部システムのおかげだから。
憎しみ憎しみ憎しみ憎しみ憎しみ憎しみ憎しみ憎しみ憎しみ憎しみ
システム?誰がそのど真ん中に生まれたいって言った?私のせい?じゃあ私は小学校6年のあの日、自分が受験に受かったと分かって、同時に、自転車を夜走らせながら、ああ、私は多分今から社会の上澄みのような人たちが行く場所にいくんだ、そして小学校の同級生の多くとは違う立場になってしまうんだ、そんな予感を抱いたあの日に人生を終わらせればよかったの?
私がそっち側に生まれて生きてきたから、私の力で成したことは一つもない、それが事実だって知ってるよ、だけどそれが事実の世界に生まれてきたことについては?そこに生まれて生きてきてしまった私が、苦しいと、辛いと、自分は苦労したと、そう言える人たちのことを羨ましいと思ってしまうことも許されないということを、私が生まれる前になんで教えてくれなかったのかな。
「だから自分の人生を生きていい」「自分の個人として出来る範囲で」
そういうことを言う人がいるけど、私はそれはしないよ。そういうこと言ってる人が本当に自分の人生をやっていくことで手一杯ならいいと思うけど、そうじゃないなら、少なくとも自分は持ってる力を全部は使ってないってことを認めなよ。それを認めて「でも私はこれ以上できない人間だからその中でこれをやる」っていう言い方にしなよ。
そもそも自分の人生って何?幸せ?さっきも書いたけど、一瞬の中の粒なんだよみんな。ずいぶんそれが大事らしいね。
こういう人間がシステムのいいとこどりをしててごめんなさい。理性と責任の谷に横に自己中心の谷も同じくらいの深さで持っててごめんなさい。こういうことを書けるのもシステム、特権の賜物であることを知っていながら書いていてごめんなさい。
そういう人間がこの世にいて、今も安全で快適な場所で息をしてて、血だらけの手でこれを書いてて、ごめんなさい。こういう人間の人生が嫌だと思っていて、ごめんなさい。
そういう谷があるもので。そういう谷の横を歩く人間だもので。
世界と人間を愛している、同じくらい憎んでいる、多分そういうことでしょう。そして最後に行きつくのは、両脇の谷のそこにあるのは、どちらも懺悔のようです。