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見せたい衝動
私は旅番組を見るのが好きだ。いつかは行ってみたいとワクワクしながら見ている。見たこともない自然の景色、建造物、スーパーマーケットをこの目で見て、空気を感じて、食べ物を味わって、といった経験をすることに、とても興味がある。
観光地とされている建造物の多くは歴史的価値のあるものである。それらの説明を聞くたびに思うことがある。今も昔も人間って全然かわらないなと。
近視眼的には多様性とか言っているけど、でも実際には1000前と同じである。
何がって?背景にある理由はどうであれ、人間は『人に自分の凄さを見せたい』動物であること。古代エジプトのピラミット、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城、インドのタージマハルなど、どれも自分がいかに凄いかを示すという動機が建設の動機の中に入っている。
もちろん、この凄いという言葉の中には、権力であったり、愛情深さ、技術力、芸術力などなど、多種多様な凄いがこの中に含まれている。
現代でも、誰が高いビルを建てるか?や、どれだけ大金を稼ぐか?はもちろん、フォロアー数、いいね数など、大きい・多いは正義のごとく、しのぎを削りあいながら、日々、自分の凄さをアピールしている、したい、気づいてもらいたい人が大勢いる。
その過去の偉人たちの『人に自分の凄さを見せたい』動機のおかけで、現代の私も、そのとても素晴らしい緻密なデザインの建物を見て楽しませていただいているわけだから、良いとか悪いという問題ではないのは100も承知である。その一方で、見せるものは変わってもやっていることは同じで、何だか人って成長しないんだな、と思い虚しさのようなものも感じたりする。
こんなことを書きながら、ふと思ったがある。自分もNoteに文章を書いて投稿している。(決して凄さではないのですが、)誰かに見てもらえたらいいなという動機なわけで、『結局自分も一緒か~』と。
何かを誰かに『見てもらいたい』って人が生きていくうえで備わっている本能なのでしょうか?そして、この『見てもらいたい』を達成するために、人々は様々な努力をし、成長をして生きていく仕組みになっているのでしょうか?