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問題のある人物(役)を演じるにあたって
この役は本当はそんなに悪い人ではない。そんなに性格悪くはない。
というようなニュアンスを醸し出して表現したがるのは、かえってその役を見下していることになる。
嫌われ役ならきっちり嫌われればいい。
問題点があるなら、それはきっちり貫けばいい。
例えば普段から「この人なんでこんな性格悪いんだろ」と思う。
なんで?と思うわけじゃないですか。
理由があるんだろうなと思う。
役者としてその理由を肯定したいのなら、その後の性格の悪さをも肯定してこそ、その人自身を肯定することになる。
「きっと何か理由があって、本当は悪い人ではないんだよ〜」と悪意を否定する演技に走っては(つまり、同情を引くようなニュアンスにしたり、格好つけたりしては)、結局のところ「性格悪いのは良くないことだから、私は認めない」ということになっている。
そう。
その人(役)のことを認めていないことになる。
ありのままのその人物のことは否定し、見下していることになる。
性格悪い役割なら、それを徹底すればいい。
性格悪さを完全に肯定して、立てばいい。
善悪の悪であるなら、悪をやればいい。
それが、その人物を、その役を演じるということ。
結果、見ている人に「どうしてこんなに性格悪いんだろう」と考えさせ、受け止めさせ、深読みさせ、共感させたりすることにもなる。
問題点がある役を担当するなら、その問題点を肯定して演じる。
「違う者」にしない。
それが作品上での役割であり、脚本家、演出家から委ねられた仕事である。
「真人間に変えて演じてあげる理解のある優しい自分」に酔いしれるな。
それは優しさではないし、理解でもない。
むしろ他者を否定する行為じゃないですか?
普段から他人を受け入れて認めていなければ、役者はできない。
綺麗事や美談しか好きじゃないなら、役者はできない。
レッスンで語って聞かせたことが、どれだけ受講生のみなさんの腑に落ちているかわからないけれど……、私はそう考えています。