80年代前半のNYの雰囲気 それはフェミニズムが輝いた時代でもありました。「Bette Gordon Empty New York 」
高校生の時にジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』を観て、何かを感じ、フランスに留学。パリでは真っ先に『勝手にしやがれ』のラストシーンの場所に向かった彼女は、現地で1968年のパリ5月革命の「政治の時代」の若者の運動やその空気に触れるともに。街の映画館やシネマテークに通いハリウッド映画とは全く違うフランス、ドイツ、日本 そしてサイレント映画を観て、彼女の映画への道が開けたと言います。そして、彼女が言及するのが、ニュージャーマンシネマ、特にライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督。権力と抑圧される側の関係、女性の生き方、セクシアリティというテーマに
加え、フレーミング、色彩や照明の使い方を受けたそうです。そんなフランスヌーベルバーグの軽やかさとニュージャーマンシネマの暗い袋小路の世界の影響が、その後、彼女が出てきた1980年ころのニューヨークというパンク,
ノー・ウエ―ブが生まれていた場所を得たことで開花したとみると捉えやすかもしれません。
そんな国、街 そして時代という視点だけでなく、もう一つ重要なことは、女性の視点。近年、今まで映画史の中で無視されていた女性監督の映画が、関を切ったように日本でも公開されており、僕もシャンタル・アケルマン、ウルリケ・オッティンガー、二ナ・メンテス、ケリー・ライカートなど女性監督の特集上映を観ましたが、「フェミニズム映画」と最近はカテゴライズされた今まで女性は「見られる側」としてのみ、映画に描かれていたことを暴き、伝統的家父長制の規範を覆そうとする女性の視点からの作品群でもありました。
今回は、彼女の初長編作『ヴァラエティ』(1983)に加え、中編の『エンプティ・スーツケース』(1980)短編『エニバディズ・ウーマン』(1981)年という初長編作において成就する彼女の発想や視点がちりばめられた習作も観ることができました。
『エニバディズ・ウーマン』(1981)
まず上映されたのが、24分の小品。映画は、ニューヨークの雑多で猥雑な街が写し出され、Marianne Faithfull が”ロシア語で言わないで、ドイツ語で言わないで、ブロークン・イングリッシュで言って。あなたは何のために戦っているの?”と歌い、正にニューヨークを感じさせてくれ、主人公が殺風景なアパートに戻ると流れるのは、ファンキーなベースと鋭角的なリズムギターのカッティングの正にポストパンクなキモい人が多い歌うBush Tetrasの「Too Many Creeps」が流れ、殺伐のした雰囲気の中で、突然電話が鳴り、見知らぬ男性が突然卑猥な事を言いだすのを聞くハメになり、彼女はそんなうんざりする日常。そこで見ている我々は、社会の中で、女性がいつも受け身で、男性の卑猥な視線や言葉の攻撃に日常的にさらされていることに気付くわけです。そして、その後、初長編の舞台となるニューヨークのポルノ映画館も登場します。
『エンプティ・スーツケース』(1980)
続いて一年前に制作された52分の中編。X-Ray Spex やTalking Headsという時代の音楽が、職場のあるシカゴと恋人がいるニューヨーク。2つの都市を行き来する女性が抱える疎外感と孤立感が描かれます。
『ヴァラエティ』(1983)
タイムズ・スクエア近くのポルノ映画館「Variety 」という「男性が女性を見る」場所の入り口のチケット売り場に「見られながら」座り、男性を「見る」という立場となり、そして主人公は界隈のポルノショップに侵入するなど、主人公はより、男性を「見る」対象として行くとともに、映画館の常連客に野球観戦に誘われたのを契機に、その男性も尾行します。
そこに描かれたニューヨークは、ジョン・ルーリーの奏でるジャズとともに、フィルム・ノアールの雰囲気を醸しだしながら、監督ベット・ゴードンのこの雑多で猥雑な街の探検でもあります。
前2作のエピソードやセリフも散りばめられた80年代前半のニューヨークで
当時のパンク、ノー・ウェーブなどの音楽と同期し、目に見えない慣習、常識と戦いた女性たちを描くと共い、そして彼女達の欲望がどこへ進むかという問いも提示しています。
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