「雪栄さん、戻って来て。」
この張り紙を見た私は思わず立ち止まってしまった。これを貼ったのは確実にあの男だろう。あいつがこの私、雪栄を探している。あの男にまつわる苦い記憶が蘇ってくる——
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そこから半年が経った今日、あの男が張り紙までして私の事を探しているという。にしてもここに張り紙があるという状況を踏まえると、男がこの近くを探していたということであり、いやむしろ今も男が私を探している最中だという可能性も十分に考えられる。とすれば、ここに居てはマズい。臭男に捕まってあの家に連れ戻される前にどこか地方へ影を潜めなくては――そう考えた私は即座にその場から立ち去ろうとした矢先、異様な臭いが鼻を刺した。これぞ正しくあの「カンガルーの袋の中の臭い」もしくは「水牛のアゴの裏の臭い」ではないか。そう思って振り返ると、目の前にその男が立っていた。
体中から発散されたその臭いは、街中を埋め尽くし、先程まで晴れ渡っていたあの青空さえもみるみるうちに汚らしい茶褐色に染めていき、そして上空から地上めがけて覆いかぶさってきた臭気の重圧に押さえつけられた私はすっかり身動きがとれなくなった。全身が震えだす。頭が回る。目も回る。男は着流しに編み笠という格好で阿波踊りを踊りながら私の方へ迫り、大音量で流れる祭囃子に合わせて次の様に歌いはじめた。
ゆきえ音頭を歌い終えた男は徐々にその輪郭を失い、たちまち茶色い霧に包まれて渾然一体となった男の実態たるや今は「臭気」そのものとなり、我が目が霞んでいく中で気体と化した男は再びエーラヤッチャエーラヤッチャと絶叫しながら遥か上空へと消えていった。それから暫くして空の色は茶から元の青へ戻った。臭気の重圧によってその場に倒れていた人々は立ち上がって何事もなかったかのように再び歩き始めた。私は顔を上げて男の臭いを嗅ごうとしてみたのだが、結局何の臭いも嗅ぎとることはできず、虚空に向かってただ自らの鼻を突き出していただけであった。
【完】