終活。人生の終わりについて誰もが考えるべきこと。
毎日、日記を書こう書こうと思うのだけど、やっぱり気力がないのか、6年間くらい日記を書き続けていた自分でも、過去の自分偉いと思うくらいに最近かけなくなってきている。
大学時代は、なんだかんだ時間があったのかな。
看護学生であり、バイトもし、部活もしてたあの頃だけど、暇さえあれば飲み会に参加し、バイトからの同僚と飲みにも出かけ、本当に充実していた日々だった。その上、毎日何件も何かを感じる度に記録に残していて、あのころのわたしと今のわたしは何が違うんだろう・・・。
最近自分が注力していることは、看護師+αの資格を取得するための勉強です。細かくいうと、”終末期ケア専門士”という資格の勉強をしています。
生きてて、ほんとこの頃切に思うのは、死に方、考えなあかんな、ということ。そして今の職場である特別養護老人ホームでもなお、死に方を考えてない老人たちとその家族を扱っているので、なんだか・・・とりあえず考えよ!?!?と思うわけです。
でも、この一般人たちは、なぜ死に方を考えてないかって、考えられないからじゃないか?と思うわけです。
だって、人の死とかみたことないから。
自分の死とか考えたことないから。
死、なんて、もはやほとんどの人が他人事でしょ。
医療の現場にいるから、人の死に関わることができるし、そのたびにいろんなことを考えさせられるけど、それってすごく貴重な体験で、他の人にはやっぱり味わうことはできなくて、だからそれを共有していくことってわたしたち医療者の使命なのかな、と思うわけです。
目の前の人を助けるのはもちろんだけど、医療者として関わっていく中ですごくジレンマを抱えることも多くて。
病院にいる限り最先端の医療を一生懸命提供しなければならないけど、かたやそれを提供しながら、「あれ?これ誰のための治療なんだ?」とむなしくなることなんか一度や二度やない。高齢者に手術をすることだって、抗がん剤を投与することだって、延命治療することだって、それ相応の副作用やリスクがあるわけで。それをあらかじめわかってたら。自分がもしそうなったときに、どこまでは治療してほしくて、どこからはもう諦めたい、苦痛をとるだけにしてほしい、など明確であれば。。。と、現場にいて何度思ったことか。
家族は、やっぱりどんな形でもこの世に存在しててほしいと思う人は多いと思う。一方で、年金など公的サービスのために、親や親族を生かしてほしいと思っている人たちもいる。自分の生活のため。
家族が意思決定代理人の場合が多いから、その際はどうしても、「もう治療をやめてください。治療しなくていいです」なんて選択肢はとりづらいもの。そんな思い切った決断なんて、本人の強い意志を以前に聞いてないとなかなかできないものだよね。
結局、まさか体調悪くなるなんて、死ぬなんて思ってなかったといったって、人間はいずれそういう時期が誰にでも必ず来るんだから、そういうときの自分の理想や、現実的な決断についてまとめておくのは本当に必要だと思う。
そしてそれは、国のためになると思う。
誰でもない他人の?医療者の?家族の?エゴのために胃瘻を造設されないために。健康寿命をまっとうするために。それは、無駄な医療費の削減になる。社会のためになる。
でも、死について、医療について、資源について、何の知識もなければ、決めろと言われても自分だけではどうしようもないこともわかる。
だからそれを手伝いたい。
長くなったけど、今はそんな思いで、どうしたらたくさんの人を助けられるかなと考えながら今日も生きています。
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