わたしたちは書いて願いを叶えようとする
願いを書く機会って一年に何度かある。来月おとずれる七夕の日がそう。短冊に願いを書く。
他にも年始に今年叶えたいことを手帳や一枚の紙に書く人も多いだろう。
こうやって人々は頭の中で願いを祈るだけではなく、願いを書くことで叶えようとする。叶って欲しいと切望するのだ。
そして書くことで願いを叶えようとしている大勢のうちの一人がわたしだ。
わたしは叶えたい願いがあった時には、ここnoteにその願いを書く。
書くことで願いの先を知ることができることがある。
なぜそれを願うのか、とか、願いがもし叶ったなら次は何を願うのか、が見えてくる。
また、書くことで新しい願いが生まれてくることもある。
書こうとすると、こういうこともしたかったよねって普段忘れていた願いを思い出せるときがあるのだ。
さらには、書くことでそのとき何を願っていたのかを思い出すことができる。
わたしは本当にすぐに忘れてしまう人だから、今年の願いも忘れてしまっている。だけど書いて記してあるので何を願っていたかを思い出すことができる。
わたしが今年願ったのはここに記してあった。
書くことを続けたいとか機嫌の良い人でありたいとか書いてあって、できていることもできていないこともあった。
書いておくと、
できていないことは軌道修正していける。
できていることは、おお、できているじゃないかと自信に繋がる。
そう考えると書くことは願いを叶えるためにとても役に立つ行動の一つだ。皆誰だって自分の願いを叶えたい。だから書くことで願いを叶えようとする。
だけど自分の叶えたいことが誰かの叶えたいことを犠牲にしてしまうことがあるのも事実だ。
わたしはあの人とだけ一緒に過ごしていければいい。なのにあいつもあの人とだけの世界を望んでいる。こういう場合どうにかしてあいつを消さなければならない。
こんな時もしどんな願いでも叶えてくれる本があったなら、わたしはどうするだろうか。
あいつが消えてくれますように、と書くだろうか。
書くかもしれない。あの人への想いが強ければ強いほど書いてしまうかもしれない。
想いの強さは人を救うこともあれば殺してしまうこともあるのだ。
じゃあどうすればいいのかと悩んでいると、とある物語の中から声が漏れてきた
わたしは自分の感情を後回しにして、相手の『一番』を想い、相手の一番の願いを短冊に書くことはできるだろうか。
わからない。やはり自分が直接何かをしてあげることで幸せにしてみせる、と思い込み、相手の気持ちなど無視してしまう行動をとることもあるだろう。それが失恋や別れに繋がるとわかっていながらも。その時の痛みを知っていながらも次はきっと上手くいくと思ってしまう。そういうところに人間の可笑しさが詰められている気がする。
正解は一つじゃないのだ。二人でしか導き出せない答えがあるのだ。その答えは二人で歩んでいくことかもしれないし、別々の道を行くことかもしれない。
愛には答えがない。
答えがないから、わたしなりの、あなたなりの答えを導くしかない。
では昨年の創作大賞中間審査通過者である、みなとせはるさんが満を辞して綴ったこちらの物語を読んだあとならば、どんな愛の答えを導くだろうか。
主役の一人であるレイラは本に願いを書く。その本に書かれたことは現実となる。もしわたしがレイラなら、さて、なんて書くだろう。
みなとせはるさんの上記の物語を読んだあとのわたしはこう書く。
「たくさんの人がみなとせはるさんの物語を読む」
と。読んでほしいからだ。
さあ、あなたは読み終わったあとなんて書きたくなるでしょう。
物語への扉はすぐそこにある
みなとせはるさんの物語は、内容が面白いのはもちろんのこと、noteの人がどうやれば気軽に小説を楽しんで読んでもらえるかって想いが詰まっています。
だから一話あたりの長さは短めに作られていて、気づけばどんどん読みすすめることができます。
noteでどうやったら小説を読んでもらえるのかお悩みの方にもおすすめです。
ぜひ。