八つの手
本当はもっと後にこの記事を桃子さんに贈るつもりだったんだけど、桃子さんのこの記事を読んで今贈るべきだと思ったので、投稿します。
人間ってのは便利なようで不便でもある。もしタコのように手が八つあれば、もっとできることがあるのにとふと思う。
だけど実際には人間には手が二つしかない。しかも二つの手が塞がった状態はかなり危険だ。もし畦道の小石に躓きでもしたら、顔面を怪我してしまう状態だ。小石に殺されるだなんて、たまったもんじゃない。だから僕らは基本的には手ぶらだ。もしくは極力一つの手で何かを済ませる。
だけど危険を承知で二つの手を使わないといけない時がある。
それは誰かを想う時だ。
あなたの悲しみを少しでも癒やしたいと思った時、自然と片手ではなく両手で抱きしめる。
この想いが届けと文章を書く時、少しでも綺麗に文字を届けたいから、文字を書いていない方の手はしっかりと紙をホールドする。
はたまた、お詣りの時にお願いをする時、片手でお詣りする人はいない。必ず両手を合わせてお詣りするだろう。
こんな風に行動しなければいけない時がある。
そして今危険を顧みずに両手をフルに活用して行動しようとしている人がいる。
それが桃子さんだ。
桃子さんは片手は自分のため、もう片手は誰かのために使いたいと想っている。
そう、
勇気を出して両手を使うことを決意したのだ。
話が少し逸れるが、
僕がnoteの中で誰に一番似ているかと問われたら桃子さんだと答える。考えていることや行動することがよく似ている。だから気持ちがよく理解できる。なぜ似ているのかが、今日の桃子さんの記事を読んでわかった。同じような苦悩を経験してきたからだ。(僕は今、人間失格のような小説か伝記かわからないようなものを書いている。桃子さんの記事に人間失格というワードが出てきて驚いている。手があと何個か欲しいというのにも驚いている。)
桃子さんも人のために頑張りすぎてしまう節が見受けられる。
こんな両手が塞がった状態で躓きでもしたら大怪我してしまう。
危うい。
じゃあ僕にできることは何か。
それは僕の手を貸してあげることだ。
手と言っても本当の手ではない。
言葉という手だ。
あんこぼーろさんの企画を借りる。
言葉って、手だ。
言葉も手も使い方次第で、その人を傷つけることも、支えることもできるものだからだ。
だから物理的に手で支えてあげられなくても、noteの世界で言葉を手にかえて支えてあげることはできる。
僕はこれから言葉の手で桃子さんがこれからもし躓きそうになった時に、顔面を怪我しないように支えていきたい。
だが僕1人の手だけで支えようとすると今度は僕の手が折れてしまう。それに既に桃子さんに手を差し伸べてくれている人は何人もいるだろう。それは彼であり、彼の母であり、親友であり、恩師であり、noteの仲間である。
仮にその手が八つだとするならば、僕はその内の一手となって、地面と顔面の隙間にそっと手を差し伸べたい。
僕の心に纏わりついていた邪悪なるものを、その優しい言葉の手で振り払ってくれた桃子さんや何人かの大切な人達のように。
ここまで、支えるという言葉を使ってきたが、しっくりこない。支えるというより、共にこの世界を謳歌したい。誰かが躓きそうになった時、助け合えていけたなら、それだけで僕はいい。
桃子さん、邪悪な心を浄化させる優しい言葉をありがとう。
終わり
※本格的にnoteに復帰するのはもう少し先ですが、必ず戻ってきます。